体調とスキンケア

3月の前半は気圧の変化に文字通り振り回される毎日だった。ウワーまた後戻りするのかーと一瞬悲観してしまったが、周りを見渡すとどうやらこの時期はみなしんどい様子で、わたしだけの問題ではないと思うと少しホッとした。毎年この季節が来るのに何年経っても慣れない。今年気付いたことといえば、この冬と春が混ざり合うような季節に、春を好むものとそうでないものがはっきり分かれるように思った。わたしは完全に後者で、春の陽気を感じるだけで気が重くなる。冬の寒気が戻ってくるだけで身も心も驚くほどに軽くなるので気候と体調は密接に関わっているのだなと思う。

 

自分自身の精神的な体調の波を見極めることは難しい。特に自分が不調の渦中にいるときは。持ち堪えてきた今になってようやく俯瞰して見れるが、調子が悪かったときはとにかく皿洗いと掃除が出来なかった。昨年の10月前後がピークで、皿を洗っている間に一瞬意識が飛ぶ瞬間があり(集中力が切れる?)、多い時は週一くらいのペースで皿やコップを割っていた。おかげさまで整理をせずとも食器棚が少しすっきりした。不要なものばかりなら良かったのだけれど、なかにはお気に入りだったレトロな足付きグラスもあり、そんなに特別なものでさえ割ってしまうくらい自分は皿洗いひとつも上手くできないのだなとショックも受けた(自己否定も強くなっていた)。

 

掃除もそうで、「物が散らかっている」という事実が頭で分かっていても、それらをあるべき場所に戻すという作業がどうしてもできなかった(そもそも身体が動かない)。ソファには洗濯物が溜まり、自室にも物が重ねられていき、窮屈な空間が広がっていった。「物が散乱していると脳疲労につながるから片付けた方が良い」と言われても、片付けられる状態だったら片付けられるし、片付ける気力がないならどうしようもないよなと正直思う。いくら片付けの方法を指南されたところで、実行に移す気力が不足しているのなら何もしようがない。それをこの数ヶ月で実感させられた。

 

ありがたいことに、体調はこの二ヶ月くらいでかなり回復を見せていて、皿洗いも掃除もひどい時に比べると作業効率が三倍くらいになった(ほとんど元に戻りつつある)。

そして、皿洗いや掃除以外にも、自分がスキンケアを念入りにやっていることに気付いた。

 

調子が悪くなるとお肌のケアは疎かになる。精神的にボロボロになったら、ぶっちゃけ肌のコンディションなんてクッソどうでも良い。スキンケアは、人に見せるものというよりも長期的に肌の状態を良く保つためのものだと思うので、先のことを考える余裕がなければないほどどうでも良くなると考えれば辻褄が合う。特にメイク落としは顕著で、余裕があるときにはクレンジングオイルで時間をかけて落としていたのに、拭き取り化粧水に頼りがちになる。

調子がいい時は化粧水や乳液など他にもパックをしたりアイクリームを塗ったりしていたものが、オールインワンジェルをぐりぐり塗るだけでもう良いや、となる。

 

しかし、最近またお肌への関心が高まってきた。この前、新しいアイクリームを買って、朝晩とせっせと目尻の皺と下瞼に塗りこんでいる。祖母の葬式の際、母親の化粧をしてあげたのだが、目元のメイクがよれるなーと思っていたが、それを自分の顔で実感してくると少しへこむ。美魔女になるつもりはないけどエイジングとは戦っていく所存。それに、朝メイクをする前にパックも仕込むようになった。下地ののりが全然違って、今日も一日良い気分で過ごせそうな気がする。これらはきっとメンタルの回復している現れなのだと思う。

 

これからも生きていくからにはきっと色んなことが起きるのだろう。その度に体調の波に振り回されることになるかもしれない。皿洗いや掃除だけでなく、スキンケアが疎かになってきたら、肌よりも自分自身を労ることに集中して、これからも自分という人間と上手く付き合っていきたいと思っている。

湯気

3日ほど前から胸の痛みがまた始まった。もう大丈夫だと油断していたら、急に首根っこを掴まれて引き戻されるような感覚。急激な気圧の変化のせいだと思いたい。

 

歳を重ね、多方面の知識をちまちま得ることによって、子供の頃の記憶の答え合わせが突然発生することがある。それは、想像していたよりも鶴岡八幡宮の舞殿がコンパクトであったこともそうだし、親にされた言動や行動が虐待やそれに近いものだとわかったこともそうだ。

 

これまでは、このブログでは頭のおかしい血縁者についてなるべく面白おかしく書いてきた。人様にはやはりネガティブなものを見せるべきではないと思っていたから。ため息は煙たがられる。ポジティブな言動がもてはやされ、自分の機嫌は自分で取りましょうと誰かが今日も笑顔で言う。

 

祖母は人格に問題のある人だった。わたしの母のことをずっと盗人扱いして、皿がなくなった時はお前が盗んだのだろう、通帳のありかを忘れた時もお前が盗んだのだろうと母に宛てて直筆の手紙を書いてきた(実際には皿も通帳もちゃんと祖母の家にあった)。親戚中が揃っている場でも遠回しに母だけを貶すような発言を度々笑いながらしていた。

 

そして、祖母の息子、わたしの父親も狂った人間だった。だったと書いたが残念ながらまだ存命だ。子供の頃、何が父親の逆鱗に触れるのか分からず、怯えるように毎日を過ごした。帰りが遅くなった夜、例えそれが同じ時間だとしても、機嫌のいい日は怒らず、機嫌の悪い日は窓が割れるくらい大声で怒鳴られた。高校の部活の打ち上げにはいつも最後まで参加できなくて、同期や憧れの先輩方とプリクラに映れたことがない。子供の頃から貯めていたお年玉はいつの間にか受験代に姿を変えていた。

 

すべてを環境や遺伝のせいにしてはいけない。努力でいかようにも人生は好転できる。実際にそうしてきた人だって何人もいる。でも、実際に親子代々、子育ては受け継がれていき、遺伝子の配列はそう大きくは変わらない。わたしも、決していつの間にか祖母や父親のようになっているのではないか。

 

『かしましめし』という作品に「辛さを先延ばししただけかもしれないな」という台詞があった。その一言を聞いた日からずっと胸に刺さっている。日にち薬がいつかこの傷も過去のものにしてくれるのではないかと願っているけれど、時が経ってもこの苦しみは薄れるどころか、長いこと湯に浸けた茶葉のように濃くなるだけかもしれない。

 

わたしは血と肉の塊になりたくないし、地縛霊にだってなりたくない。できることならば霧のようにふわっと消えてしまいたい。でもそんな方法は残念ながらない。熱い湯で入れたかりがね茶を見てわたしは湯気を羨ましく思う。

ジンクスとマーガレットの花束

ジンクスと調べると縁起の悪いこと・ものと出てくる。言い換えれば悪いことが起こる予兆のようなもので、わたしにはこれまでいくつかのジンクスがあった。それは防寒ジャケットとノンアルコールビールとマーガレットの花束の三つ。

 

一つ目の防寒ジャケット。これは某メーカーから出ている保温性の高い上着なのだが、一見薄手に見えるし軽量なのに思っている以上に暖かく、さらっと羽織れるので重宝していた。しかし、これを着る時に限って配偶者と口論になったり不穏な空気になったりすることが多く、着るのをためらうようになった。いつからかそのジャケットは一人で外出する際にのみ着用するようになった。

 

ある時、電車の中がものすごい暑い日があった。外が寒い時、外気温に合わせて人々は着込んできているというのに、電車内が暑すぎて汗だくだくになるのはいかがなものか、と毎年思っている。そして、その時わたしは自分がとてつもなくイライラしていることに気が付いた。わたしは体温が高い。平熱が36.6℃とかなので、平熱が低い人にとっては微熱ぐらいあるし、生理前なんかは37℃に平気でなる。

 

それゆえに、人よりも暑さを感じるタイミングが早い。わたしは暑いのが苦手なので、夏も季節としてなくなればいいと思っているし、サウナにも入らない。いくら寒い日であっても暖房をかけながら寝るのはかなり苦行である。この自分の体調の特性を考えていたとき、ようやく気付いた。

防寒ジャケットが悪さをしていわけではなくて、暑さがわたしの機嫌を損ない、口論や不穏な空気を引き起こしていたのではないか?

 

それに気がついてからは、配偶者と過ごす時もそのジャケットを羽織るようになった。少しでも一定以上の暑さを感じたら、なるべく早くその脱ぐ。それを心がけたらこれまでに起きていた嫌な雰囲気が流れることもほとんどなくなった。

 

二つ目はノンアルコールビール。今日はあんまりお酒を飲みたい気分じゃないからアルコールはいいや、とかこの後運転があるから、という日は一杯目にノンアルコールビールを注文していた。

ビールを飲んでいる気分にもなるし、でも運転もできるんだしこりゃあいいやと初めは飲んでいたが、振り返ってみると、ノンアルコールビールを飲んだ日はトイレに篭ったり、身体の調子が悪くなることが多いような気がしていた。勘のいい人はこの時点で察するかもしれない。

 

ある日、今日は運転手だからとノンアルコールビールを注文した。すると、さっきまでは元気だったのに飲み始めてから三十分くらいして急に気持ちが悪くなり、トイレに駆け込むと戻してしまった。これはおかしい。明らかに今日わたしは元気で、体調の悪い兆しなどなく、当たるような食べ物を食べていない。その時初めて、もしかしたらこの飲み物の成分が合わないのでは?という疑問が湧く。

 

それまでノンアルコールビールが何で出来ているか、何があの味を作り出しているかなんか考えたこともなかった。ノンアルコールビールがビールと違うのは、アルコールを生成するビール酵母が入っていないこと、そしてほとんどのノンアルコールビールに「アセスルファムK」という人工甘味料が入っていることだった。

 

人工甘味料_お腹」と検索してみると、わたしと同じようにお腹の調子が悪くなるという人が一定数いることもわかった。アセスルファムKノンアルコールビール以外にも、カロリーオフの飲み物の多くに含まれている。それらを口に含むと、砂糖や果糖ではない独特の舌に突き刺さるような甘味がある。

 

法事の際、運転があるからとおばにノンアルコールビールを渡されるも「あたし飲むとお腹壊しちゃうからノンアルコールビールは飲めないんだよね〜」と断ると、おばたちは驚きながらも、シルコは偽物が飲めないらしいと感心して笑っていた。そう、わたしは本物しか飲めない贅沢な腹なのだ。

 

こうしてみると、ジンクスだと思っていたものには明確な根拠があった。案外、自分が悪いイメージを植え付けているだけで、科学的に説明できることの方が多いのかもしれない。

 

そして、三つ目はマーガレットの花束。わたしは花が好きだ。社会人になってからは、花を買うのが生活の楽しみのひとつでもあった。

 

当時は、上野駅に入っている花屋か、最寄駅から家に帰る途中にある花屋によく立ち寄っていた。わたしは花の中では一番マーガレットが好きなのだが、多くは鉢植えばかりで、花束として売られていることは少ないように思う。

 

ある帰り道に花屋に立ち寄ると、偶然マーガレットの花束が売られていたので意気揚々と買って帰った。枝が長く、ちょうど良い瓶がなかったため、ゴミの日を待っていたハートランドビールの瓶に生けた。当時住んでいた家のキッチンの壁はイエローだったので、シンクのそばに飾ると瓶のグリーンが相まって景色が華やいだ。

 

そんなるんるん気分で過ごしていた最中、伯父の訃報が入った。突然なことで動揺していたわたしは、キッチンに飾ってあったマーガレットの花束を見て、自分が浮かれてこんなものを飾るからだと自分を責めていた。それから、花を飾ること自体がトラウマになり、何年もの間花を買うことはなかった。

 

時が経ち、コロナが蔓延して出掛けられなくなると、花が恋しくなった。その頃、花の定期便というサービスがちらほら始まった頃で、システム自体に興味があったこともあり、利用を始めた。わたしの使っていたサービスでは、2〜3種類のブーケの雰囲気から好きなものを選ぶと、そのイメージのブーケが二週間に一度ポストに投函される仕組みだった。

 

再び花を飾り始めてから、不吉なことが起きることはなかった。ああ、わたしが花を飾ったところで何か悪いことが起きるわけではない。ようやく一つ荷物を下ろせた気がした。花の定期便はめまぐるしいスピードで値上がりし、それに反比例するように品質が下がっていくのを感じたので早々に解約した。

 

それからは駅前の花屋や道の駅で購入しているが(道の駅が結構穴場でいい花が売っている!)、ある日、花屋を覗くと黄色を基調とした花束を見つけた。ガーベラとカーネーション、そしてマーガレットが入っているではないか。

 

マーガレットか。少しだけ躊躇したが、その花束のバランスがとても好みで、すぐに購入した。いざ自宅に持って帰ってみると、キッチンには飾る気になれず、ベッドのサイドテーブルに飾ることにした。

f:id:uminekoblues:20240310172853j:image

その数日後、配偶者から電話が入った。日頃から世話になっている人が病院に運ばれたとの連絡だった。

 

話を聞いてみるとかなり深刻な様子で、心筋梗塞脳梗塞かもしれないと言っていた。夫婦でお世話になっている方なのだが、一人暮らしで、近くに身寄りがいないこともあって、その日の予定をキャンセルして入院の世話を手伝うことになった。

 

午前中は一緒に検査に周り、急いで家に寄って入院のための衣類や日用品をバッグに詰め込む。手続きまでには一時間くらいしかない。まさか、五十歳を過ぎた、身内でも恋人でも友人でもない男性(職場では鬼上司として恐れられている)のトランクスを無心でエコバッグに詰め込む日が来るとは思わなかった。

 

緊急で入院するにはこんなに時間に猶予がないのかという現実と、独り住まいのリスクの高さをひしひしと感じるのだった。

 

入院当日の様子を見ていたら、退院するまでには最低でも一ヶ月はかかるのだろうなと思っていたし、もしかすると一人で生活するのは無理なのではないか、と思うほどだった。しかし、その人は驚異的な回復を見せ、一週間ほどで退院した(具体的な診断名は控えるが、脳梗塞心筋梗塞が原因ではなかった)。

 

その人が入院している間、わたしたち夫婦(というか主にわたし)は毎日朝晩最低でも一時間半かけて飼い犬の世話をしており、当時はこれが一ヶ月続くと思っていたので、頭がおかしくなりそうだった。友人との飲み会の時間を押していたときは、TWICEの『YES or YES』を全力で歌うことでなんとか正気を保った。退院してから快気祝いとして飲みに連れて行っていただいた際には、腹いせに…と思い山崎12年のハイボールを2杯も飲んだ(飲んでやった)。

 

これも無事に回復を見せているから書けているわけなので、色々思うことはあるが、当人が元気になってありがたいと思っている。

 

マーガレットと今回の出来事に直接の因果関係があるとは到底思えないので、これこそがまさにジンクスと呼べるのかもしれない。そして、わたしが一番好きな花であるマーガレットの花束を家に飾ることはもう二度とないと思う。

 

写真:同じブーケに入っていたカーネーション。さすがにマーガレットの写真は残せなかった。

2024.03.01

大谷翔平選手が結婚した。ツイッターではわたしが嫁ですというネタツイートが頻出している。芸人がやるならまだしも、一般人ツイッタラーがいいね稼ぎのためにやるのは少々痛々しい。

 

元旦に起きた能登地震から丸二ヶ月が経った。今なお1万人以上が避難生活を余儀なくされていて、避難所ではいまだに仕切りさえもなく、雑魚寝をしている人もいる。自主避難者への食糧支援は2月末で打ち切りになったそうだ。

 

そんな能登の空に、政治家は激励としてブルーインパルスを飛ばすと言っている。勇気付けられるよりも気持ちを逆撫でするだけじゃないのか。万博も一向に中止にはならないし、都庁は18億をかけてライトアップされている。この国はお金を使う優先順位を確実に間違えている。

 

ガザの北部では、飢餓状態を強いられている人々が待ちに待った支援物資の小麦粉を受け取るべくトラックへと向かった際に攻撃を受けて虐殺された。その攻撃で100人以上が亡くなったそうだ。もっと死者数は増えることだろう。涙をこぼしながらその話をする人の映像を、わたしはただ暖房の効いた文鳥のさえずる部屋で見る。

 

テレビでは大谷翔平選手ばかり取り上げられている。それはそれでおめでたいことだ。でもそれは個人の話で、わたしには直接何の関係もない。そんな状況の中でしれっと生活に直結する重要な法案が可決されている。わたしは政府が恐怖の対象でさえある。この世界に希望なんかあるのだろうか。結局自分が何をしたところでこの世界は変わらないのかもしれないけれど、事実を残しておこうとこの日記を書いた。

重炭酸タブレットとモノポリー

この間、正月のお飾りを買うついでに無印で買ってきた「おやすみ前の薬用重炭酸タブレット」を使ってみた。顔を近づけるとむせるほどは炭酸が出てこないが、背中を軽く指でトントンされているくらいにじんわりと泡が出てくる。なんとなく自分を労っている感じがして気に入った。

重炭酸タブレットは、中に3つのタブレットが入っていて、てっきり一回一錠使う物だと思っていたら、説明書には「180ℓのお湯に対して3錠使ってください」と書いてあった。いつも溜めるお湯の量は140ℓ。40ℓオーバーしている。単純計算すると1錠で60ℓ、2錠で120ℓなのだから、近いのは120ℓだよなと思い、一錠を残して使う。我ながら貧乏性だなと思う。

あいにく近場に無印もないし、残りの一錠が湿気てしまいそうなので、翌日、追い焚きをした湯に残りの一錠を追加しようと風呂場に入ると、重曹特有の香りがした。

 

わたしはこの香りを嗅ぐとモノポリーを思い出す。

モノポリーとはアメリカで生まれたボードゲームで、不動産を取引して資産を増やし、他のプレーヤーを破産させるというゲームだ。

f:id:uminekoblues:20240112224034j:image

小学校に上がってから、わたしは両親(というか父親)からまともに娯楽を与えられたことがなく、小型ゲーム機の一台も買ってもらえなかった(たまごっちも!)。その代わり、ゲームボーイのような形をした、ボタンを押すとなかの輪っかがぷかぷか浮いて枝に刺さる……という地味なおもちゃで遊んでいた。切なすぎる。

 

おそらく、というか確実に、我が家には検閲機能があって、父親の教育方針に従わないものは家に立ち入ることを許されていなかった。

その父の検閲を掻い潜るようにして、伯父は毎年のように色んなボードゲームをプレゼントしてくれていた。父親は紙物には甘かったので(父の学校にあった『ブラック・ジャック』は全部借りてきてくれた)、ボードゲームもそのうちに入ったのかもしれない。

 

対戦相手は主に姉。モノポリーはゲームの盤自体はシンプルなのだが、子供だけで遊ぶにはルールが難しくて、始めても途中で飽きてしまうことが多かった。逆にわたしたち姉妹は人生ゲームにハマっていて、平日であってもよく夜中にこっそり起きてはやっていた(母が二階に上がってくると布団の下に無理やり隠したりして)。

人生ゲームがプラスチック製の車に人間型のピンを刺すのに対して、モノポリーの駒は銀色で、アイロンや帽子、船などの変わったモチーフが多く、ずっしりとした重みがあった。その金属製の駒がなんとも言えない香りを放っていて、開くたびに不思議な香りが鼻にこびりついた。

 

ある時、シンクの汚れには重曹クエン酸を使うと良いと聞いて重曹を使ってみると、モノポリーの駒と同じ香りを放っていることに気が付いた。それからというもの、重曹の香りを嗅ぐたびに、あの銀色の駒と、モノポリーをいまいち楽しみきれなかった苦い記憶を思い起こす。

 

伯父はその後もことあるごとに色んな物を贈ってくれた。それはまるで刑務所の差し入れに近かった。名作を題材にした漫画シリーズや、手塚治虫の『ブッダ』や『火の鳥』。不勉強だったので、もらった当時はほとんど手をつけなかったが。

 

今年で伯父が天国に行ってから8年になる。天国に検閲機能があるか分からないが、出来ることならば伯父にも何か娯楽になるものを差し入れてあげたい。

 

William WarbyによるPixabayからの画像

2024年元旦

年が明ける瞬間は『ゆく年くる年』を見て迎えた。

その数時間前まで、わたしはトイレにこもり腹痛と戦っていた。焼き蟹、お寿司、ローストビーフ、スパークリングワイン。大晦日に食べたご馳走すべてが流れていった。なんとか精気を取り戻して迎えた2024年。日付が変わり、三十分ほどしてから床に入った。

 

元旦。ポストに郵便物が投函された音で目が覚める。ポストの中を確認すると輪ゴムで束ねられた年賀状が入っていた。その間に自分の旧姓の苗字を確認すると、輪ゴムを外さないまま玄関に置いた。元旦から父親の直筆を見たくない。

 

まだ胃の辺りがざわざわする。ケトルでお湯を沸かして胃を温めた。コンロを見ると、大晦日に食べようとしていた蟹は、配偶者の手によって蟹鍋に姿を変えていた。

 

蟹鍋。美味しい。そして胃に優しい。元旦の食事がまさか鍋になるとは思っていなかった。足の部分はポン酢で食べ、身に付いている部分は蟹スプーンでほぐし、卵を解いて残りは蟹雑炊にして食べた。なんとも贅沢な食事であった。

 

そのあと、近所のケーキ屋で買ったショートケーキを食べる。大晦日まで近所にあるお気に入りのケーキ屋が開いているのは有難い。クリスマスにケーキを食べなかったので、代わりに元旦ケーキ。ケーキはいつ食べたって良い。

f:id:uminekoblues:20240104232411j:image

お腹もいっぱいになり、眠気が襲ってくるとそのままリビングのカーペットにゼットライトソルを敷いて横になった。少しスマホをいじってから眠りにつく予定だったが、目が冴えてしまい、スマホをいじり続けていると、地震予報の通知が入った。

 

始めは横になっていたが、横揺れが大きくなる。咄嗟に身体を起こして文鳥のケージが乗っている机を押さえる。こういう時に備えて、机と壁の間に揺れを軽減する専用スポンジを挟み、机とケージは荷締めロープで固定してある。ケージ自体はほとんど揺れなかったが文鳥たちは呆気に取られている様子だった。

 

しばらくすると震源地がわかる。能登。数年前にも大きな地震があった場所だ。また来たんだと思った。始めは震度6強だったが、しばらくすると震度7に情報が訂正されていた。

 

寝室で仮眠をとっていた配偶者もリビングへやってきた。テレビをつけるお正月ムードはすっかりなくなっていて、番組タイトルはそのまま、どのチャンネルも番組内容を変更してキャスターが地震の情報を伝えている。

 

NHKにチャンネルを回すと、アナウンサーが語気を荒げて視聴者へ非難を呼びかけていた。テレビを見ている場合ではありません!という趣旨の発言はこれまでのテレビでは聞いたことがない警告だった。

 

揺れの大きい場所のライブカメラが交互に写されていく。この辺りから自分の中で時間の感覚が失われていく。今日が元旦であるということも忘れる。目の前の映像にマイナスな変化が起こることを恐れ始める。

 

X(Twitter)には情報が溢れていく。本物らしき津波の映像。3.11の時の荒れた海の映像。津波が来るから家族に逃げようと声をかけるもまともに話を聞いてくれないと怒る人。被災地の人々にとって有益な情報と見せかけながらいいねを稼ごうとする人。偽のアカウントでコピペした救助要請を拡散する人。余計な投稿を止めるよう悪質な投稿者に怒る投稿を続ける人。

 

こういう時、優先的にツイートするべきは有益で正確な情報を発信できる専門的な知識のある人や拡散力の大きい著名人(=有名であれば正確というわけではない)だと思っていて、静かにしていることが安全な地域にいる人間ができる最大限のことだと思う。「避難のために常備しておくものリスト」を拡散しても、今避難が必要な人がそれを見ている余裕はないだろう。余計な情報を増やさないことも協力のひとつの形だと思う。

 

テレビの前に張り付きながらXを眺めていたら、一ヶ月くらい治っていた胸の痛みが再び始まった。身体が無理だとSOSを発している。映像を見て悲鳴に近い声を上げると、配偶者に「じゃあ見なければいいんじゃない」と言われたので、感情が波を立てるのをやめ、「それもそうだね」とコップにお湯を注いでリビングを離れた。

 

 

ベッドに入り、文学フリマで購入した亀石みゆきさんの『死ぬのが怖くて死にたくなった日記』を読む。

f:id:uminekoblues:20240105202611j:image

活字は自分の読みたいところまで自分の好きなテンポで進めることがありがたい。病気のことを打ち明けた翌日に直接会いに来てくれるK子さんと外科のY先生の誠実さに、なぜだかわたしが勇気付けられて涙が出る。(その後Xを拝見して闘病が続いていることを知る。何よりも、どうか亀石さんの病気が良くなりますように、と陰ながら願っております。)

 

一時間ほど自室で過ごしたあと、リビングへ向かうと、お腹が空いていることに気付く。配偶者がマクドナルドに行くことを提案してくれたが、お惣菜が食べたくなり、地場のスーパーSへ向かうことになった。元旦なのに当たり前のように開店しており、駐車場はほぼ満車だった。ピザやぶりのお寿司、ポテトサラダなどを購入してお腹を満たした。その後、薬を飲んで早めに布団に入った。

大室山でギャルピース

これは11月11日から、文学フリマに合わせて東京や地元の水戸、その他関東近辺を旅した際の記録です。前記事はこちら。

墓参り、江ノ島の夕日 - ぬか漬けは一日にしてならず

旅最終日。最後の目的地は伊東にある大室山。大学二年生の時、高校時代の友人たちと伊豆と伊東を旅した時に一度だけ訪れた場所である。大室山は木が生い茂っているような山ではなく、頂上にすり鉢のような形をした噴火口がある火山で、イメージするならば草木に覆われたコンパクトな富士山というところだろうか。

 

当時はあまり山自体への興味がなかったこともあり、リフトで頂上に登っただけで噴火口の周りを歩かずに帰ってしまった。一周したらどんな景色が見れていたのだろうというのが心残りだった。

 

旅の話からは逸れるが、この旅に出るきっかけになったのは今年適応障害になったことだった。ストレス要因が重なり、眠れなくなり、物忘れや不注意が増え、身体が動かなくなった。これまでずっと蓋をしてきた昔の記憶も溢れ出し、それがさらに自分を苦しめた。使い古したバッテリーを、充電しては電池がすぐに切れ、また充電してを繰り返しているような感覚だった。

 

配偶者が大事な試験を控えていて、家の中にピリピリした雰囲気が数ヶ月にもわたって充満していることがさらに追い打ちをかけた。これ以上我慢すると自分が崩壊してしまうなと感じて、半ば飛び出すような形で出た旅だった。

 

やりたいことはたくさんあるけれど、もうどれを叶えられるかは分からない。もしかしたら些細なきっかけでこの世を旅立つかもしれない。だとしたら、その前に誰に会ってどこに行っておきたいかなと思ったとき、この旅程が思い浮かんだ。この人たちに会ったら、この景色を見たらもういいかな、と旅に出る前には思っていた。

 

そして、旅の目的地に大室山を選んだのにはまたひとつ理由がある。大室山にはリフトの頂上手前に記念写真のフォトスポットがあり、必ずシャッターが切られる。前回は、この日の数日前にバーミヤンで談笑した友人のMとともに写真に映り、千円ちょっとする写真を思い出として買って帰ったのだった。

 

どうせなら、大室山のリフトに一人で乗ってギャルピースで写真に映ってやろうじゃないかと急に思い立った。それだけを動機に火山に向かうのもなんか面白くて良いじゃないかとワクワクし始めた。

 

 

藤沢から熱海へ、熱海から伊豆高原駅へ行き、路線バスに乗り換える。電車もバスも本数が少ない分待ち時間が長い。こういう余白を現代人はすっかり失ってしまったなと思う。バスの車内から眺める伊豆高原の町並みは、どことなく那須に雰囲気が似ている気がした。

 

大室山に到着。大きな鳥居が出迎えてくれる。

f:id:uminekoblues:20231230222227j:image

いざ、リフトへ。そういえば、登山口みたいなものは見当たらないな、徒歩ではどう登るんだろうと疑問に思っていたが、大室山は山体保護のために今はリフト以外では登れないらしい。

f:id:uminekoblues:20231230230004j:image

対向はほとんどお客さんがのっていない、このまま進めばカメラの向こうのスタッフ以外に見られずにすんなり撮れるかもしれない……と期待するのも束の間、どんどん乗客が乗り込んでくるではないか。

f:id:uminekoblues:20231230230001j:image

フォトスポットが近づくと、ここまできたのに無理かもしれない……と羞恥心でめげそうになったが、わたしの前を一人で乗っていたおばさまが、カメラには一瞥もくれず、撮影スタッフの声をフルシカトして通り過ぎたのが衝撃的で返って覚悟を決めた。

 

ついにわたしの番、カメラの向こうにいるスタッフの声がポーズを促す。わたしはリフト全体を活用して、両腕を大きく広がて全力でカメラに向かって笑顔でギャルピースを決めた。対向にもがっつり人が乗っていたのに、何故だか1ミリも恥ずかしくなかった。我ながらかっこよかったと思う。

 

しかし、頂上につき、蛍光緑のジャンパーを羽織った撮影スタッフが写真の購入を勧めてきた途端、そこにギャルピースをしている自分が映った写真があるのかと思うと、急に羞恥心が追いついてきて、手刀を出して逃げるように断りを入れた。

 

念願の大室山山頂。残念ながら曇り空だったが、なんとか持ち堪えてくれて雨に降られずに済んだ。雲が出ているのも相まって天空のような雰囲気がある。

f:id:uminekoblues:20231230230926j:image

火山口を約半周した場所からの景色。中央の窪みはアーチェリー場になっていて、ちょうど売店で体験の申し込みをしている人がいた。

f:id:uminekoblues:20231230231155j:image

f:id:uminekoblues:20231230233012j:image

大室山に登って、ギャルピースを実行できただけでなく、大きな収穫がもうひとつあった。

 

わたしは今まで人生の目的地は一箇所だけだと思っていた。わたしは目的地に真っ直ぐにも進めず、遠回りしているうちに、そもそも目的地自体がどこかわからなくなってしまった人間だ。それまで、どこを歩いているかもわからないわたしの人生は失敗なのだとすら考えていた。

 

見ようと思って来たわけではないが、江ノ島からも大室山からも富士山を望むことができた。仮に富士山が目的地だった場合、そこに登ることは出来なかったとしても、富士山の見えるまた別の山に登ることはできるかもしれない。それは一箇所ではなくて、色んなところにあって、登っているつもりがなくても辿り着いているのかもしれない。富士山に登ることだけがゴールではない。そう考えたら、これまで自分が歩いてきた道も前よりは肯定できるような気がした。

 

大室山を後にし、伊東駅へ戻ると、次の電車までの待ち時間に石舟庵さんで購入した塩豆大福を食べ、小田原で足湯に入ってから帰路についた。

f:id:uminekoblues:20231231165448j:image

帰り道は想像以上に足取りが軽かった。友人にも最後に会っておこうではなくて、次また会える日が楽しみになったし、見てみたい景色がどんどん思い浮かんだ。やりたいことも、やらなくてはならないこともわたしにはまだまだある。どんな薬よりも、旅こそがわたしにとっては特効薬なのだと思う。