ポジティブの暴力に頬を殴られた話

テラスハウス OPENING NEW DOORS』で、ゲスの極み乙女DADARAYのベースの休日課長のことを川谷絵音さんが「課長はプライベートが充実していないほど良いベースを弾く。プライベートの不調好調が全部ベースに返ってくる。」と話していた。

 

私はその点、胸の内に煮えたぎる思いがフツフツと湧いてくると、自然と書く文章が長くなってくる。好調なときは、1行で収まるような中身のないトゥイートが多い。例えば、のどぐろの炙り食べたい。とか。

そんなこんなで、煮えたぎる想いが140字のトゥイートでは収まりきらないのっぴきならない理由があったので、はてなブログとやらを始めんとす。

 

 

 

 

 

さて、本題に入るとしよう。

 

これまで自分の中には「ポジティブは善、ネガティブは悪である。」という命題が漠然とあった。真偽を確かめるまでもなく、そういうものだと思っていた。

かく言う私はド・ネガティブ。ネガティブの極み乙女だ。

 

 

いきなり時間軸がズレるが、先日中学時代からの親友と那須旅行をした。

地元から1時間半くらいかけて、親友の愛車に乗ってドライブをしながら、他愛の無いことから深い話までいろんなジャンルのことを話した。

 

 

親友とは、服装のジャンルも違えば音楽の趣味(親友はケツメイシKREVAが好きだけど、わたしはtofubeatsとかミツメが好きだ)も違うし、正直共通の趣味はないのかもしれない。私たちを繋げたものといえば、中学時代にBUMP OF CHICKEの『車輪の唄』がとても好きで一緒に歌っていたことくらいだろう。それが不思議と性格にあっては、頑固でこだわりが強いところも、筋が通っていないと気にくわないところも、まるで自分を見ているかのようにそっくりなのだ。

 

 

唯一まるっきり違うのは、私が超ネガティブなのに対して親友は超ポジティブなところだ。 彼女からはハッピーオーラが漂っていて、それを他の人にもよく言われると言っていた。一方の私は、社交的ではあるけれども冷静なタイプで、よほどテンションが上がらない限りは声のトーンも低い。

私は彼女のポジティブさがとても好きで、それは彼女の長所でもあると思っている。彼女は私のネガティブで考えすぎてしまうところも私の良さだと言って褒めてくれる。お互いがお互いの長所も短所も認め合っている、とても理想的な友人関係であることは間違いないという前提がそもそも存在している。

 

 

旅行から帰ってきてしばらく、楽しかった旅行の余韻を語り合う長いLINEを交換し合っていた。お互いの仕事のことや(義理の)家族に関するストレスの話も交えながら。

 

やりとりの中で、急に、違和感を感じるタイミングがあった。

それは「あなたの考えすぎてしまうところも良いところではあるけれど、こうやってポジティブになったら良いよ」とアドバイスが始まったところだった。私はこういう方法でポジティブシンキングを保っているから、是非実践してみて。と彼女は言う。

 

私にとってそれは=「あなたも一歩ずつ私を見習ってポジティブになった方が良い。」と聞こえて仕方がなかった。親友とはかれこれ15年くらいの付き合いになるが、こんなに後に引くような言葉はなかったかもしれない。

 

 

 

ポジティブシンキングが良いことは私だって分かっている。そして、それがネガティブシンキングよりも良いものであると私は別段疑うこともなかった。でも、その命題が成立するには条件が付くのではないか、と思った。

 

 「ポジティブは善である。※ただし、それを人に強要しない限り。

 

 親友がポジティブシンキングであることを誰も否定ができないし、むしろ賞賛されることだろう。でも人にそれを強要することは、ただのポジティブの暴力でしかないのではないだろうか。

 

性格はその人が人生に於いて、数十年に渡って積み重ねてきた集大成だと思う。それはある時本人の意思に反して、出自などの身の回りの環境によって変わってしまうものでさえある。数十年の間染みついてきたものをたった一言で変えようなんてあまりにも身勝手じゃないかと私はその時思ってしまった。

 

わざわざ反論しようという気にはならず、その言葉を受け入れるわけでもなく、「自分の頭では分かっていても性格を帰るのって難しいよね。」というさらっとした返事を送ってから、何となくモヤモヤした気持ちでいたのは今まで書いたことのせいだった。

 

 

 

 

 

話は変わるが、競泳の有名な女子高校生が白血病と診断された、とニュースでやっていた。

 

ワイドショーはそのニュースで持ちきりで、本人のいないところで、それに対して意見した人々の声が読み上げられ、別室にいる白血病経験者の芸能人と中継が繋がっている。

 

前向きな意見、ポジティブな体験談はそれだけ見れば正しいことだ。

どんなに良い治療法があれど、完治した経験者がいれど、それは彼女以外の周りの出来事でしかない。本人がそれを望んで欲したものであれば有意義なものだと言えるけれど、本人が自分から欲しない限りは、ポジティブなアドバイスは与える側のただのエゴではないのだろうか。ポジティブなアドバイスをすることによって自己肯定感を高めているようにしか、どうしても私には見えなかった。