おんなのるつぼと私の大学時代の友人

群 ようこさんの作品で『おんなのるつぼ』というエッセイがある。

題名の通り、色んなタイプの女の人が考察されている一冊。

 

おんなのるつぼ (新潮文庫)

 

その中に、「自分が一番」という一節がある。とある花屋のオーナーのお話だ。

簡単に要約すると、なんでもかんでもこちらの話に「そうじゃなくて」と否定の言葉から入るから、どうも後味が悪い。なんでこうもおんなの人って自分のことばかり大事にして人を否定するんだろう、という話。なんでも否定から入るのは、結局は自分が一番、自分が基準だからなのだ。読みながら、「うんうん。」と思わず頷いてしまう。どうしてこうも、返答が「でも〜」から始まる女なの人って多いんだろうか。

 

 

 

私は、特に高校生の頃から“同級生の女の子”という存在が苦手だった。

そもそも、わたしはお弁当の時間が本当に嫌いで嫌いで仕方がなかった。というのはまず、母の作ってくれるお弁当が全然可愛くなかったからだ。母の作ってくれたおかずは、たとえ自分で詰めたところで全然可愛くならない。色合いが地味だからだ。それを見られるのが思春期の私はすごく嫌だった。それに加えて、なぜクラスメイトと集まって食べなければならないのかわからなかった。毎日毎日わざわざ集まって話す話題もないし、むしろみんなで仲良くなる必要なんてない。男子が自分の席でお弁当を食べるのは普通なのに、女子がそうするのが許されない雰囲気が嫌いだった。

 

ある日、母がおいなりさんをタッパーいっぱいに詰め込んだお弁当を学校へ持っていった。全然可愛くない、全面茶色の弁当。たまたま、その時近くにいたクラスメイトの女がその弁当箱の茶色い中身を見て「かわいい〜」と言った。どこがかわいいじゃボケ。ふざけんな。その日を境に、教室で弁当を食べる行為が阿呆らしくなった。

 

昼休みが始まった途端にリュックを背負って教室を飛び出し、保健室に行って先生とだべりながら食べるか、部室へ駆け込み一人で弁当をかっ喰らい、野球部のグラセンを見ながらぼーっとしたり、部室にある漫画を読んだり、昼寝をするか、の主に二択で教室でお弁当を食べることは特別なことがない限りなくなった。

 

 

 

中学校ではそれほど感じてはいなかったけれど、高校に入ってから、お弁当の時間以前に大多数の “女の集団” が私にとっては受け付けられない存在になっていた。“みんなで”とか“グループ”とか、大なり小なり集団を形成しようとするところに違和感があった。現に、クラスが一緒になったからって、仲良くなれる子なんてほとんどいなかった。一人で何かをやることに何の抵抗もないタイプだったし、私の中では部活の存在が大きく、同期が家族のような存在だったので、私にはそれほどクラスに仲の良い友達は必要ではなかった。

 

 

現に、わたしは友達が少ない。というか、友達と認定している人が少ないだけかもしれない。

自分の中で友達を認定することは、小麦粉をふるいにかける感覚にとても似ている。雑多に混合している集合体のなかから、純なものを厳選していく作業。特に、大学を卒業して《大人》になってからは、そのふるいにかける作業が頻繁に、そして網目はさらに細かくなってきている実感がある。大人になってまで、人に合わせたり、違和感を感じながら人付き合いを続けるなんて馬鹿馬鹿しい。全てはそういう考えからだ。

 

 

 

先日、大学時代にとても仲の良かった友人のうちの一人で、大学を卒業してからも頻繁に飲みに行く友人と距離を置こうと思う出来事があった。

数年勤めた旅行会社を辞め、大学在学中から念願だった広告業界に転職する彼女。2月にこんなメッセージがきた。「次の仕事が始まる前、しばらく休みの期間があるから、3月の終わりに遊びに行くね。」私は早めに言ってくれたら全然予定は合わせられるし、だいたい予定が固まったら教えてねと返信した。また決まったら連絡する!というメッセージを最後に、私は友人からの連絡を待っていた。

 

3月初旬、来ない。

何やかんや忙しいんだろうな、そのうち来るだろう。

 

3月中旬、来ない。

そして下旬、待てど暮らせど連絡がこない。

 

 

連絡するねと言われていた手前、こちらから催促するのはなんだか腑に落ちないため、気持ちをぐっとこらえて連絡を待つ。

 

3月も残り5日くらいになった頃、1通のエアメールが届く。例の友人からだ。内容はこうだった。

「海外旅行が思いの外長引いちゃって、遊びにいけなくてごめんね〜。ヨーロッパ最高!オペラ座めっちゃ綺麗だからおすすめしとく!4月から仕事頑張ります。じゃ!」

 

完全にわたしの主観的な要約なので、悪意満載なことは言うまでもない。それにしても、あまりにも簡単に事を済ませようとしてないか??!?沸き上がってくる怒りの気持ちを抑えて、冷静に私が厳しいだけなのか?と客観的に考えてみるも、やっぱりおかしい。落ち着いて一日考えた結果出た答えは、Instagramでヨーロッパ旅行最高!転職するし飲みのお誘い待ってま〜す!なんて投稿をする暇があったら、詫びのメッセージ一通ぐらいよこせよ。だった。

 

 

私の中で何かが爆発した。どこの火山だろうか。桜島か?はたまたハワイのキラウエア火山が噴火したのだろうか?どんどんマグマが溢れ出してくる。

今思えば、彼女に対していままでも違和感を感じる瞬間は幾度となくあった。噴火の予兆は既に何度かあったのだ。時間の問題だったのかもしれない。例えば、待ち合わせを明らかに自分の家の近くに設定してくること(間を取ろう、という発想がない)、自分の男友達の話をして写真まで見せてくるくせに、わたしの仲のいい友人の写真はわざわざ見せなくていいよと言ってきたこと。わたしは浪人しているので、彼女の一つ上なのだが、大学の同期であるのだから対等に付き合うべきだと思っている。でも彼女からは“年下の甘え”のようなものをひしひしと感じていた。

 

 

本当は何の連絡もなしにしばらく距離を置こうと思っていた。けれど、わざわざ海外からエアメールを送ってくれたという善意だけはちゃんと受け止めようと思った。

結局、「エアメールありがとう。ヨーロッパ旅行楽しめて良かったね。そして無事に帰って来れて何よりです。だたし、今回の対応については非常に残念です。詫びのメッセージ1通でもよこすべきでは?筋が通っていないと思います。親しくても礼儀は必要だよ。」という旨のメッセージを送った。返事はわたしが送ったよりも5分の1くらいの短いのもので、少しふてくされたような感じだった。すごく残念だった。誠意を感じるような謝罪の一言でもあれば、今後の関係はずっと変わっていたような気がする。わたしは、その後なんの返信もしなかった。

 

 

彼女は、おんなのるつぼの中の「自分が一番」女だったのだ。

人の話を聞こうとしない姿勢は、はたから見て結構キツいものだ。自分の話をしたい気持ちもわかる。でも自分の話ばかりされるとこちらは困る。人付き合いには気遣いってもんが大事なんじゃなかろうか。

 

最後に彼女に会ったのは、わたしが高校の同級生(部活の同期)の結婚式に参加した直後だったので、あまりにも彼女の身勝手さが顕著になってしまっていたのもタイミングが悪かったなと思う。結婚式やその二次会で、色んな友人や知り合いと話す機会があったが、素敵だなと思った人は自分の話をする以上に人の話を聞いている印象があった。そしてそういう人たちは大抵、既婚者か彼氏/彼女持ちだった。気遣いのできる人ってやっぱり魅力的だよねと同期に車で送って貰う時に話していた。

 

 

自分が一体どんな“おんな”なのか考えてみると、私は礼儀とか義理人情にはうるさい女だ。筋が通ってないことが許せない。

多分、彼女とは1年は会わないと思う。連絡がきても、お断りをするつもりでいる。過去の親しさとこれからその付き合いを続けるかどうかは関係がない。お互いが敬意を払えない関係などそれにかける時間もお金も無駄だと思う。このまま疎遠になるかもしれないし、またどこかで繋がりが復活するかもしれないし、それは未来にお任せするしかない。「人のふり見て我がふり直せ」。この教訓を身を以て得た出来事だった。