ブログ・タイム・カプセル

このところ、PCのハードディスクや写真のデータを整理していたら懐かしいものを発掘した。高校時代のユニフォームをきた集合写真や成人式の振袖姿、大雪が降った日にルームメイトと作りに行った大きな雪だるま、学校帰りに寄った喫茶店のクリームソーダ東京国立博物館で行われた『時をかける少女』の野外上映、鷲神社の酉の市。

 

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季節が巡るたびに顔を合わせる友人たちや、中にはもうきっと会うことのない人、もう決して会うことのできない人の姿。

 

見映えがどうとか関係ない、綺麗な思い出もそうじゃない思い出も時が経てば愛おしく思えるもんだなーと思う。

 

 

あるフォルダには見慣れないWebページのリンクが保存してあった。昔やっていたブログだ。これまで10年以上、アカウントをころころ変えながら細々と続けてきた。ある程度続けていると、どうしてもコミュニティみたいなものが出来上がり、その人たちに向けたものを自然と発信せざるを得ない状況が窮屈に感じてしまって、突然そのブログを辞めてしまいたくなる。結果、FC2、AmebaWordPressはてなと引越しを繰り返している。

 

 

今回見つけたのは18から20歳くらいまでやっていたAmebaブログだった。多分これだろうと思ったアドレスとパスワードの組み合わせが違って、もう使っていないアドレスだったので一度ログインを諦めかけた。限定公開の記事が多かったのでどうしても諦めきれず、もう一つ思い当たるものを入れてみたら案外すんなり開いた。

その頃は私がこれまでの人生の中でも一番葛藤していた頃で、読んでいて胸が痛くなった。寝る前の2〜3時間、何日かかけてそのブログを読み終えて思ったのは、「ブログをやっていて良かったな。」ということだった。その当時、ブログの存在に救われていたことを思い出した。生と死、どちらかといえばかなり死に近い方にいた私にとっては「誰かが見てくれている」だけで救いだった。今でもブログを続けているのは、面白い文章を書きたいという欲求もあるけれど、根底には誰かが見てくれていることが延命措置だったからだと思う。

どんなくだらない内容の日記を書いても何かしらコメントをくれる人、ここぞという時だけ長い間考えて書いたであろうコメントを書いてくれる人、普段は特にコメントしないけれど私がどんなことを書いていたか覚えてくれていた人、いまの人間関係と繋がるものがあった。

 

 

人は今と未来を生きるべきで、あまり過去に浸るのは良くない。「思い出だけじゃ生きていけない」と収納上手で有名な主婦さんが言っていた。その通りだと思う。でも少しだけ思い出を抱えて生きていても良いよねと思う。

 

 

 

最近、自分の義理堅い性格のせいで比較的長い付き合いだった人間関係をぶった斬った(極端すぎる表現もよろしくないので、距離を置くことを決めた、に訂正する)。「親しき仲にも礼儀あり」だし、借りは返すし、義理を甘んじる人となあなあに付き合いたくない。それでもなんだか自分が悪い人になったような気がして、モヤモヤが止まらなかった。

 

かつて友人に私がどう見えてるか簡潔に教えてと聞き回っていた時期があり、ある日のブログには「付き合う友達を選ぶ・気が強い・自分が決めたことは他人に何を言われようと変えない」と書いてあって、自分で自分を誇らしく思ってしまった。自分を信じればいいのだと思った。

 

 

たまには昔の自分を振り返るのも悪くない気がする。

でもそこで大事なのは、ブログのURLとパスワードをどこかにちゃんとメモっておくべきことだな。いま読み返したくても、幾つかのブログはURLの痕跡もどこにもない。発掘されないタイムカプセルのように、どんどん朽ち果てて忘れ去って行くのだろうなと思う。

 

写真:筆者撮影(iPhone4Sを使用)

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