わたしのヤバい家族と家族コンプレックスについて

よく衝撃的な出来事を目の当たりにして「ドラマみたい」なんてことを言うけれど、事実は小説よりも奇なりと言われるように、現実には自分の想像を絶するような奇妙な出来事はたくさん起きているのだろう。

 

 

毎週待ちわびていたドラマ『向かいのバズる家族』がとうとう先週最終回を迎えてしまった。いまはまだ、木曜日の虚無感に苛まれている。どこにでもいる普通の家族がある日突然 “バズる” ことによって家族解散へと追い込まれるという内容。このドラマを見ていて一番に思ったのは「このドラマの内容よりも自分の家族をドラマにしたらもっとキョーレツだな」ということだった。

 

 

家族の呪縛

小さい頃のわたしは「ずっと子供でいたい」という気持ちよりも「早く大人になりたい」という気持ちの方がよっぽど強かった。一人で何もできないことが歯がゆかった。少なくとも実家に住んでいるうちは、自由だと感じられることなどなかった。自分の思うように生きられない、自分の人生を選ぶことができない。毎日が絶望の連続だった。人に干渉されることほど苦痛なことはない。

 

 

この数日「箸の持ち方」がツイッターのトレンド入りしているが、わたしの親も躾には異常なまでに厳しい親だった。箸の持ち方が上手くできないと、ご飯を食べさせて貰えない。ご飯を一粒でもお茶碗に残していたら怒られる。味噌汁にご飯を入れて食べようものなら「これは人間の食べる飯じゃない」と玄関に持っていって口で食べろと言われた。大学時代に学校近くの定食屋に行き、隣で食べていた友人が「お腹いっぱいになっちゃった〜ごちそうさま」と三分の一以上も生姜焼き定食を残したときは、心の中で(そんなのいけない…)と思って「残すの申し訳ないから代わりに全部食べるよ」と言って友人の分まで食べきったのも、この“躾”が影響していると思う。幼少期、寝る前は必ず正座をして、父に向かって「おやすみなさい」というのが決まりだった。

 

 

オミソ・シルコの家族プロファイル

わたしにとって「家族」は「帰りたくなるあたたかい場所」ではなく、呪縛であり、時には息の詰まる場所、そしていまでも強いコンプレックスの一つだ。

 

家族を呪縛のように感じてしまう諸悪の根源は間違いなく父親だ。いまでこそ物理的な距離のあるおかげで戦いが勃発せずに済んでいるけれど、高校生のときは胸ぐらを思いきり掴んで投げようとしたこともあるし、包丁で親を刺し殺したというニュースは他人事とは思えない。父親の母、つまり祖母は女学校の先生、そして父方の親戚は国立大学出身のエリートばかりで勿論父親も国立大学出身だった。高学歴を良しとしている一族だ。なお、父の兄は蒸発している。母と結婚した頃は、スリムで、『Dr.コトー診療所』のコトーに風貌の似ている、アコースティックギターフォークソングの似合うような青年だった。私が5歳くらいの時、交通事故に合い、生死を彷徨うような体験をしてから、性格がまるっきり変わってしまったらしい。いつからか眉間には男梅のように深いシワが入り、外見・内面ともにまさに “頑固親父” そのものだ。どこへ行っても「先生、先生」と呼ばれる立場だったこともあり、自分の通った道こそ正しい道だという信念を頑なに捨てない人間だった。

 

母は専業主婦。いまでこそ白髪の目立つ初老のババアになってしまったが、昔の写真を見るとひときわ目立つ美人だった。一時期は芸能活動をしていたらしく、番組で貰ったという木のお面のようなオブジェが実家に飾ってあったり、アルバムの中にはオーディションの様子や、牛乳のキャンペーンガールになったときの凱旋パレードの写真が残っていたりもする。そんな母は変わり者で、一時期姉と一緒に母は魔女なんじゃないかと疑っていたこともあった。“母の教え”といえば「人に優しくしなさい」のような、母性を感じるような教えが一般的には多いような気がするが、自分の母親からは「何事にも懐疑心を持つこと」「発想の転換が大事だということ」「女の嫉妬は怖いということ」の3つをしつこく叩き込まれたように思う。

 

 3つ上に姉がいる。顔のパーツや背格好が似ているくらいで、それ以外は全く似ていない。わたしが鋭い気の強い人間な一方、姉はほんわかしたのほほんとしたタイプ。それでも中高生のときはわたし以上に荒れていた。内緒でバンドをやったり、バイトをしたり、眉毛を全剃りにしたり。ただただ両親への反抗の礎を築いてくれたことには感謝しかない。高校時代、姉の成績が悪すぎて、激怒した父親にガラケーを逆パカされ、退学寸前にまでなった。実家のわたしが使っていた部屋のクローゼットに今でも退学届がしまってあるはずだ。バンドマンの彼氏と付き合ってもう7年くらいになるが、父は断固として結婚を認めるつもりは無く、今年の頭にはお見合いをさせようとして姉と言い合いになったらしい。2年くらい前から父親に黙って同棲し始めた。なお、わたしも大学生の頃から両親に内緒で友人とルームシェアをしていた経験がある。

 

 

平均的に生きることの難しさ 

学生時代に知り合った相手と結婚して、一男一女をもうけ、マイホームを買い、子供たちが成人して巣立っていく様を見守り、老後のスローライフを楽しむ…というような “当たり前の人生” こそ難しい。

『向かいのバズる家族』の家族のような、平凡な家族がわたしには夢のようだった。わたしにとって、 “仲の良い家族” は幻想でしかなかった。母や姉との関係は比較的良好だが、父親との関係は他人よりも遠かった。話すときは基本的に敬語、家に住んでいる生徒指導のおじさんのような存在。帰宅する途端に家の空気が凍りつく。わたしの親は、教育に関するものにはお金はかけるがそれ以外のものは無駄だと考える人間だった。誕生日に貰えるものといえば、新しい辞書や参考書、学習に関するものばかりで、クリスマスに至っては「うちは仏教徒だからそんなものはない」と言い放たれ、サンタさんの存在に幻想を持つ余地などなかった。おもちゃやゲームを買ってもらった記憶がない。

 

少し前に学校を舞台にした『明日の約束』というドラマがあったが、井上真央の母親があまりにも自分の父親を見ているようだった。父は、わたしの人生を自分の思うようにしないと気が済まないタイプだったのだ。部活動、受験校、就職先、結婚相手、口癖は「こんなことも知らないのか」と「常識だろう」だった。平気ですぐに人を貶すのだ。事あるごとに「おまえは鳴かず飛ばずだ」と貶された。褒められた記憶はほとんどない。正確に言えば、父の意向に沿うもの以外はほぼ全て否定される。家庭以外の場面で、何とかして自分に自信をつけることに努めてきたが、自己肯定感の弱さはここに繋がっているのかもしれない。

 

『SHORT TERM12』と性的虐待の父親 

平凡な家族には想像もできないような険悪で複雑な家庭環境はたくさん存在している。それは物理的な暴力だったり、言葉の暴力だったり、ネグレクトかもしれない。そして、円満な家庭に育った人ほどそういう家庭に対する想像力は乏しいことを今までの自分の身の回りの反応をもって実感した。わたしは悲劇のヒロインを気取っているなどと形容するような人とは距離を置くようにしている。ぶってるんじゃない、ただの悲劇な場合はどうしたらいいんだって話だ。

 

このニュースを知った時、ある映画のことを真っ先に思い出した。

www.excite.co.jp 

『SHORT TERM12』という映画がある。いわば児童養護施設のような場所、複雑な家庭環境に育った子供たちが住んでいるグループホームを舞台としている。

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グループホームで働く主人公のグレイスとある日入所してきた女の子ジェイデンは同じく父親から性的虐待を受ける経験を持つ。ある日、ジェイデンは自分の被害をグレイスへ暗に伝えるため、タコの物語をする。タコはサメと仲良くなりたい一心で、サメに「足をくれないか」と頼まれたら一本ずつ足をあげてしまう。そして最後には全ての足がなくなってしまう。

ジェイデンは自分の被害をどうにかしてグレイスへ訴えようとしていた。いくら虐待の事実が予想できても、自分の口で証言しない限りは父親から離すことはできないのだそうだ。そのくらい自分から被害を主張するのは難しいのだと学んだ。話の終盤で、ジェイデンの父親に復讐するために、寝込みを狙って父親の車のフロントガラスをバットで二人叩き割るシーンが最高にスカッとする。目に見えない背景を想像するには、常に想像力を鍛えなければならないと改めて思わされる作品だった。

 

 

黒歴史は笑いに変えることで昇華される

わたしは子供らしい幼少期を過ごしていない。

でも、わたしは同情をされたくない。可哀想だとは絶対に言われたくはないと思って強く生きてきた。

多感な頃、周りの環境と自分を比べるたびに自分を追い込んでいた。友人には悩みを相談できなかった。中学時代に男の担任に相談してみたこともあったが、「このくらいの時期はそんなものだよ」と一蹴された。唯一相談できたのは、保健室の先生と母子家庭で母親と兄との関係に悩む高校時代の男友達のMだけだった。

  

悲しいけれど、世の中には自分ではどうすることも出来ないことが一定数ある。その中で家族は最たるものだ。当時はそういうことを実感せざるを得なかったのと同時に、Mとお互いの話をしていると幸せな奴らに負けてたまるかという気持ちにさせれくれるのだった。中学時代、教室を抜け出して、ただ人目を避けて泣くしか出来なかった頃にはなかった救いだった。

 

 

それでもわたしは自分が不幸だとは思っていない。どうしても闇に沈んでしまうような日もあるが、自分で自分を不幸だと思ったら、どんどん悪循環に陥るだけで、もっと自分を不幸にするだけだということが分かっているからだ。悪循環を絶つのに有効なのは、自分の嫌な思い出や過去をできるだけネタにして笑いに変えることだった。高校生のとき、家族の話をネタにすると、どっと笑いが起きることに気付いた。ハプニングや嫌な過去も表現次第で笑いに変えられるなんて思ってもいなかった。それからは事あるごとに「ネタがまた一つ増えた」と考えるようになって、心が軽くなるのだった。ある時からわたしの人生は、超面白い、ネタの宝庫になった。

  

自衛隊の指令と鏡文付きの文書

父親との連絡手段はかつては主にメールだった。それもワンシーズンに一度するかしないか、実家に帰省する際の一行や二行に収まる簡単なものか、一方的に送られてくる長文かのどちらかだった。大学時代は、定期的に父親から自衛隊の指令のようなメールが届くこともあった。時には一番上にことわざが書いてある、学年通信のようなメールもあった。わたしが社会人になる頃からの連絡手段は、メールでなく書面へと変わった。

 

一年に一度送られてくる、父親の年間計画表には、仕事の予定から祖父の介護の予定などが詳細に書かれている(これが親戚中にも送られる)。

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時にはご丁寧に鏡文まで付けられている

最新の文書はこれだ。必ず末尾は「以上」で締めくくられ、一丁前な事務文書である。

冒頭の「必ず遵守し、履行しなさい。」あたりが、父親の押し付けがましい性格を顕著に表しているのではないかと思う。


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こんな父親の義理の息子になるなんて申し訳ないという気持ちで、結婚をする気は毛頭なかった。自分が家族を作るという未来が描けなかった。たまたま自分を気に入ってくれ、育った環境からお酒の好み、何から何まで意気投合できる相手に運良く出会ったので結婚したのがいまの夫だ。

 

初めて実家に連れて行ったときは、その場では結婚を承諾するフリをされ、2〜3日経ったあとで、「断固反対である。」という内容の長文メールを送ってきた。理解に苦しむ。挙げ句の果てには相手のことを「伸び代のない男だ。」とまで言われた。他にも挙げきれないくらいあるが、このことは父が死んでも許さないつもりでいる。結果的には、一年間に及ぶ戦いを経て、なんとか両親を屈することができた。

 

 

夫との生活はリハビリの毎日だ。実家から500㎞以上離れたいまの土地に引っ越してすぐの頃は、父親が見張っているような気分が払拭できない、突然父親から届く封書にビクビクして目眩のする日々だった。それでもいまでは、ようやくその呪縛から解き放たれ始めている気がする。自分の心を蝕むような存在からは、距離を置くしか方法はない。物理的な距離は心に余裕を生む。どんどん呪いが解け始めているのを実感する一方で、この戦いは父が死ぬまではずっと続いていくのだろうと思う。父親との戦いであり、自分の心との戦いである。この経験は、自分の弱さに繋がるのではなく、強さに繋がるものだと信じて戦い続けなければいけない。

 

 

最後に、自分のプライベートを切り売りすることには時にリスクを孕んでいるけれど、今までの人生を昇華したい気持ちで書きました。最後までお読みいただき、ありがとうございました。