わたしに一番近かった東京「浅草」

北関東の片田舎出身のわたしにとって、東京は近いようで遠い街だった。

 

年に数回、甲信越地方にある祖父母宅へと向かう道中に通り過ぎるだけで、東京が目的地になることはほとんどなかった。首都高をぐるりと覆う防音壁から垣間見える東京の街並みを頭に焼き付けるべく、目まぐるしく変わる景気を後部座席の窓から食い入るように見るのだった。立ち並ぶビル群を見ても、そこが東京のどこなのかはさっぱりわからなかったが、唯一頭にはっきりとインプットされていたのは、「金色のうんこ」が東京に入ったことの合図だということだけだった。パブロフの犬がベルの音でよだれを垂らすように、黄金に光り輝くうんこが視界に入る度に東京への憧れは増幅されていくーー。

  

高校生になってやっと、自力で東京に行くことを覚えた。部活の同期と高速バスの最後部を陣取って、お台場近くのジョイポリスへ遊びに行ったり、当時付き合っていた先輩と高円寺に行って古着屋を巡り、通学に使うための洒落たリュックを買って帰ってきたりした。東京に一歩近づいたような気がした。

 

わたしに一番近かった東京

受験期。東京に一人で行き、宿泊するのは初めての体験だった。いままでのように日帰りで遊びに行くのとは違って、今度は大荷物だ。冬の着替えは厚手で場所をとる。参考書や洋服を詰め込んだSWIMMERで買ったおもちゃのようなスーツケースをぎこちなく高速バスの座席に持ち込んだ。隣には友人も彼氏もいない、今回は一人だ。東京は、誰かと一緒だと楽しくてキラキラした街に見えたが、電車が1時間に1〜2本しか来ないのが当たり前の田舎者にとって、一人で行くにはあまりにも心細い街だった。

 

でも、この街なら見覚えがある。浅草だ。

f:id:uminekoblues:20191120010418j:image

わたしの地元から出ている東京行きの高速バスは、必ず金色のうんこ、否某ビール会社の情熱のオブジェの脇を通って上野や秋葉原を経由し、終点の東京駅に到着するのだ。受験地が多少遠くても気にしない。いつ大勢の乗客が一斉に乗り降りするかわからない電車に大きな荷物を抱えて乗るよりも、浅草付近のホテルに荷物を預けて身軽になってから移動する方がよっぽど気が楽だった。浅草は、東京の中で “わたしに一番近い東京の街” だった。

 

 

無事に東京の大学へ進学することになったものの、初めて住んだ街は惜しくも東京から一駅分外れだった。厳密には上京とは言えない。上玉だった。ランクの高い卵入りのかけうどんみたいだ。それなりに住み良くはあったが、どことなく道が汚かったり、すれ違う人の歯の本数が一般的な街のそれよりも数本少なかったりして、家賃が安いのも納得だった。現実はあまりにも現実的だった。大学生らしく、渋谷や新宿へ繰り出して夜な夜なお酒を飲んだり、原宿や下北沢で洋服を買い漁ったりもした。バイトが終わってあたりが暗くなってから電車に乗り、ライブハウスで汗だくになるくらい朝まで踊った。無駄に代々木公園にも行った。東京の街の美味しいところを少しずつかじっていった。

 

 いつの間にか、浅草のシンボル・金色のオブジェの隣には新たなランドマークが誕生していた。

f:id:uminekoblues:20191120010457j:plain

 怠惰な大学生だったわたしは、教育実習を言い訳にして就活を一旦放棄し、出来立ての巨大な鉄塔のふもとでバイトをしていた。近くのテナントで働いていたお姉さんと仲良くなり、上がりの時間が被れば最寄りのコンビニで焼き鳥とお酒を買って、浅草まで夜の散歩をした。街灯の下に渥美清さんなどの著名人の写真が飾られていることで有名な浅草六区通りの石製ベンチに座り、ドン・キホーテで買い足した缶チューハイを飲みながら身にならない話をダラダラとするのだった。上機嫌に飲んでいると、帰宅途中のサラリーマンに「写真を撮っていいですか?」と言われて、まんざらでもない気分で被写体になった。本来であればわたしの脳裏にしか記憶されていないはずの黒歴史は、あのサラリーマンの携帯にまだ記録されているだろうか。もともとレコードショップで働いていたお姉さんはバンドに詳しく、「あのバンドの〇〇っていうメンバーが浅草に住んでるらしいんだよね。」と言っていた。その時初めて、観光地として浅草に「来る」んじゃなくて浅草に「住む」選択肢があってもいいんだ、と思った。

  

周りの友人が着々と就活を終え、卒業旅行の計画やら最後の長い夏休みの過ごし方に思いを馳せている頃、重い腰を上げて就活を再開し、なんとか滑り込みセーフした。上京を機に親しくなり、一時は週5で泊まらせて貰っていた高校の同期Sと、本格的に一緒に住むための部屋を探すことになった。最高の条件が揃っていたK糸町の物件を泣く泣く逃したあとにたまたま見つけたのが、奥浅草のマンションだった。予定よりも間取りは少々狭くなったが、二人とも一目で気に入り即決した。

  

浅草ととんかつ屋

引っ越しを済ませ、蕎麦じゃなくても何でもいいから美味しいものを食べに行こう、と外に出てたどり着いたのがとんかつ屋の「とんかつ弥生」だった。嬉しい再訪だった。

全国各地のゲストハウス巡りが趣味だったわたしは、Sと共に東京のゲストハウスにもよく泊まっていた。大学3年生の終わりに三ノ輪の行燈旅館に宿泊した夜、自転車を借りて夜の散策に出かけた。地図は見ずに、なんとなく行ってみたい方向に自転車を走らせていく。気付けばアーケードのある小さな商店街に着いた。道を抜けていくとそのとんかつ屋が見えて、お腹を空かせたわたし達は迷わず入ったのだ。住んでみて初めてわかったことだが、引っ越したマンションの近くにあった千束通り商店街は、わたし達がおよそ1年前に自転車でたまたま辿り着いた商店街で、その時訪れたとんかつ屋はマンションから徒歩5分の場所にあったのだ。浅草との縁を感じずにはいられなかった。

 

わたしがただとんかつに目がないというだけかもしれないが、浅草にはとんかつ屋が多く点在している。なかでも、一番忘れられないのは「カツ吉」のとんかつだ。

f:id:uminekoblues:20191120180151j:plain

雰囲気のある老舗は、若者を疎ましく思ったりしないか少し心配したが、店員さんが小娘二人に対しても丁寧な接客をしてくれるのがとても気持ちよかったし、何より嬉しかった。カツ吉のとんかつはパン粉がかなり細かめで、衣が薄いのが特徴だ。メニューは定番の味噌とんかつから紫蘇やチーズ、しいたけや牡蠣など、変り種がたくさんある。

f:id:uminekoblues:20191120010718j:plain

記憶は曖昧だがおそらくチーズとんかつ。ナポリタンが敷いてあるのが嬉しい。

カツ吉には特別な日に行くと決めていた。地元から共通の友人が遊びに来た時、不動産業界で働いていたルームメイトが宅建に合格した時。とびきり美味しいものを食べたい!そんな日にぴったりだった。「いいかい学生さん、トンカツをな、トンカツをいつでも食えるくらいの歳の頃にはな、脂っこいものはあんまり食えないんだ。」というツイートを思い出すと、20代前半にあんなにも美味しいトンカツを頻繁に頬張れたわたしは幸せ者だと思う。

 

 

浅草と下町人情

「浅草と人情」は「ホストにドンペリ」くらいにぴったりな言葉だと思う。浅草は街の人との距離が近い街だった。干渉されるのとは違って、程よく心地よい距離感だった。

週末には、平日にたんまりと溜め込んだ洗濯物を洗って、IKEAの大きな青色のバッグに詰め込み、自転車でよろよろとコインランドリーに向かうのがお決まりだった。

f:id:uminekoblues:20191120010636j:plain
待合スペースに置かれた週刊誌をぱらぱらとめくってゴシップに見入ったり、洗濯物がぐるぐると回る様を見ながらぼーっとする時間は、無意味なようで大切な充電の時間だった。たまにオーナーのおばさまと鉢合わせると「いつも綺麗に使って頂いてありがとうね」と声をかけられ、たわいない世間話をする。おばさまがパン屋のパートから帰ってきたタイミングで遭遇するときは、「ここのパン美味しいのよ」と袋に入っていたパンをほとんど私にくれるのだった。

 

休日出勤を終えて駅から自宅に向かっていたある日曜日には、通勤路沿いにあったバーの前で「知り合いの居酒屋さんが店を畳むから好きなものを持って帰って」と店の前にテーブルを広げて、街ゆく人に食器を配っていた。いつも自分で作るのは洋食ばかりで、和食に合う器をあまり持っていなかったため、味のある和食器を揃えたいなと思っていたところだったので、ありがたくご飯茶碗や小鉢などを頂いて帰った。それらの食器はいまでも我が家の食卓に並んでいる。

 

浅草は等身大で生きられる街

浅草にいると、他の街に行ったときに感じる窮屈さを不思議と感じなかった。時たま、緑や土の多いところに行きたくなるので、自転車を走らせれば10分くらいで上野公園に行けるのも魅力だった。ライフにSEIYU、肉のハナマサがあるだけでなく、商店街の八百屋や大きなドン・キホーテなど、日用品や食料品の買い物にも全く困らない。モーニングは朝マックから喫茶店讃岐うどんなど選び放題だったし、作業用のカフェも十分だった。ちょっと疲れた日は銭湯に行って、ケロリンの黄色い洗面器に溜めたお湯を勢いよく被り、あったかいお湯にざぶんと浸かれば大抵のイヤなことは忘れられた。

f:id:uminekoblues:20191120180052j:plain

春には綺麗な藤の花が破風屋根を彩る曙湯

ホッピー通りでは、サラリーマンたちが昼間はキュッと締めているであろうネクタイを緩めて、各店自慢の牛スジ煮込みをつまみにビールを流し込んでいる。通り全体を優しいオレンジ色の光が包み込み、道のいたるところから笑い声が聞こえてくる。使用感のある丸い椅子やテーブルは決して綺麗とはいえないが、飾らない雰囲気が心を解いて行くのだろう。こんなにもたくさんのリラックスした人々が東京で見られるのは、ホッピー通りか日比谷のオクトバーフェストくらいじゃないだろうか。

f:id:uminekoblues:20191120011711j:plain 

浅草には背伸びをしない等身大の生活があった。それこそが浅草に住む魅力だった。東京の街を歩いていると、どうしてもみんな無理をして生きている感じがして逃げ出したくなった。でも、浅草では息ができる。無理をしなくていいんだ、と思えた。

 
浅草を出てから来春で3年になる。これからの人生でまた浅草に住むことは、きっともう二度とないだろう。わたしにとって、引っ越した後でこんなにも「またあの街に住みたい」と思える街は、後にも先にも浅草以外にないだろう。

 

書籍化記念! SUUMOタウン特別お題キャンペーン #住みたい街、住みたかった街

書籍化記念! SUUMOタウン特別お題キャンペーン #住みたい街、住みたかった街
by リクルート住まいカンパニー

 

写真:著者撮影(iPhone6を使用)