明日、遺書を書こうと思う。

ほんの3ヶ月前には、令和2年の年賀状を嫌々ながらも書いていたところだった。当たり前のように毎日が続いていると思っていたのに、蓋を開けてみたら、そこにあったのは想像を絶する日々だった。

 

富士山に登るとき、海外旅行に行くとき、危険な地域に行く際やしばらく家を空けることになるときは、遺書を書くようにしている。正確には遺書とは言えないかもしれない、親しい人に対する手紙だ。

 

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そんなのシリアスに考えすぎだ、大げさだと笑われてもおかしくない。これは自分の中のジンクスなのだ。遺書を書いておけば、死なない。なぜなら遺書を書くと、死が突然身近なものになるからだ。もしも自分が富士山から滑落したら、もしも旅先で破傷風に罹ったら……自分の書いたこの手紙を親しい誰かが開封することになる。その光景を思い浮かべると、不思議と「死ぬ覚悟」ではなく、「生きる覚悟」が生まれるのだ。

 

 

いまテレビやSNSで見る国内のニュースは、フェイクニュースだと思えてしまうほどに馬鹿馬鹿しいものばかりで反吐が出る。これからこの国の行く末を、自分の身近な人々に降りかかってくるであろう災難を想像すると、いっそ早い段階で自分の人生を終わらせてしまおうか。その未来を見たくないという気持ちにさえなっている自分がいる。

 

 

医療従事者である友人のひとりは、勤務先の病院は感染症指定病院ではないそうだが、救命外来にくる呼吸器症状のある患者のトリアージを今週から任されることになっているそうだ。わたしはコテコテの文系だし、医療のことなど全くわからないが、着々と、未曾有の疫病に対応するために、現場の状況が変わっていることはわかる。

 

友人の話とニュースで見聞きする話との乖離があまりにもありすぎて、憤りすら覚える。もしも、その大事な友人に何かがあったら、わたしには正気でいられる自信がない。現場の人間を矢面に立たせて、国民のトップたちは目先の利益のことに目を眩ませ、現実的でない、誰も興味のない話ばかりに力を注いでいる。

 

あと一年後、わたしは生きているだろうか。医療従事者や東京の満員電車で通勤している友人らは、みな生きているだろうか。このブログを大げさだと笑って読み返せているだろうか。未来を想像することがこんなにも怖くて辛いことなんてあるだろうか。未来に希望はあるのだろうか。いまにもめげてしまいそうだ。

 

だからわたしは明日、遺書を書こうと思う。その手紙を誰にも読ませない覚悟をするために。

 

写真:Michal JarmolukによるPixabayからの画像