文鳥と病院通いのお盆

お盆の間、文鳥が卵詰まりになりかけていて、動物病院を行ったり来たりしていた。お医者さんには、「産卵は寿命を縮める危険な行為なんですよ」と少し厳しい口調で言われ、わたしは小さくなってしまった。幸いなことに、二度のカルシウム注射で自然に産むことが出来た。小さな体から出て来たのは、先端の尖った小さな卵だった。

 

産卵の翌日、無事に産めた報告と今後の治療のために再度病院を訪れた。待合室に座っていると、鳥用のケージを抱えたご夫婦が入って来る。犬猫が多い病院で鳥用のケージを見つけて内心テンションの上がったわたしは、どんな鳥を飼われているんだろうとそれとなく様子を伺ってみた。奥さんはケージに向かってしきりに声をかけ続けている。片隅を覆うように布をかけていたので、止まり木にいるのだろうと思っていた。診察室へ入っていく様子を目で追うと、インコがケージの底に横たわっていた。

 

そのあとすぐに診察室のドアが開き、奥さんの方が空のケージを抱えて戻ってきた。病院で預かることになったのかな…と案じつつ、診察で疲れた文鳥を抱えて車に戻った。ケージをシートベルトで固定していたら、靴箱ほどの大きさの、ピンク色の箱を大事そうに抱えたご夫婦が車に乗り込んでいくのが見えた。

 

お会計を終えた夫が、車を走らせるなり「あのインコちゃん、可愛そうやったなあ」と言った。「受付の人が『お代は大丈夫です』と言いながら封筒を渡していたから、きっとエンゼルケアやと思う」と続けた。

我が家の文鳥も、お医者さんには危険な状態だと言われていた。自然分娩が難しいと判断され、圧迫して取り出してもらえたとしても、殻が割れて炎症を起こす可能性があり、生きるか死ぬか五分五分のところだった。無事に生き永らえた我が家の文鳥とあのインコの間にあった差は何なのだろうか。

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地元の湖にある道路標識

今年の盆も、帰省して墓参りをすることはできなかった。地元には丸一年半帰れていない。こんな盆だからこそ、もう会えなくなってしまった人に思いを馳せる気持ちもなおのこと強くなる。老衰で亡くなった祖父や大伯母よりも、前触れもなく突然居なくなってしまったふたりの伯父のことは今でも心に引っかかるものがある。

 

同級生の結婚ラッシュでもあるこの数年間に、クリーニングに出した回数はよそ行きのワンピースよりも喪服の真っ黒なワンピースの方が多い。

奇しくも、伯父らはふたりとも同年代で、これから余生を過ごすという年齢だった。そして同時期に、一人は事故、もう一人は脳梗塞で亡くなった。

父方の伯父はよく働く人だった。東京のTHE・サラリーマンの街にある会社に長いこと勤めており、老後の資金はたっぷりあると嬉々として話していた。かつてはお酒を嗜んでいたが、健康のために数年前から禁酒をし、亡くなる数ヶ月前に会った時にはほっそりとしていて驚いた。愉快な伯父と同じく愉快な伯母の未来には、穏やかで愉快な老後が待っているはずだった。亡くなった時は本当に眠っているようだったので、伯母もしばらく本当に昼寝をしていたのだと思ったらしい。伯父の葬儀は、ある盆の初めに親族だけのこぢんまりとした形で執り行われた。

 

これまで当たり前だと思われていたような、老後の生活に比重をおいて身を削るように働く生き方はふさわしくないと言われている気がした。数十年後の未来を見据えて生きるのは、あまりにも博打すぎる。陸地の見えない海上で、方角も確認せずにボートを漕いでいるようなものだ。5年後や10年後の近い未来を見据えて、その都度軌道修正する必要があるのだよな、と伯父は生き方を考え直すきっかけをくれた。

 

 病院から帰った文鳥は、発情を抑えるための薬を飲みながら、これまで一緒だったパートナーとは離れて大きなケージにひとりで暮らしている。新しい卵を抱えていないかレントゲンを撮ってわかったことだが、腎臓が大きめなので餌を変えたほうがいいとも言われた。脂質の多いシードを食べ過ぎないよう、お医者さんからは栄養価バランスのとれたペレット食に切り替えていくことを勧められた。

 

卵を抱えて寿命が縮む可能性をはらみつつもパートナーと一緒に暮らせるのと、発情の要因を減らすためにパートナーとケージ越しにしか会えない生活はどちらが幸せなのだろうか。大好きな煮干しやシードを我慢しながら生き永らえることを、本人たちは望んでいるだろうか。

 

100歳まで長生きできる代わりに、山岡家の醤油ラーメンやマックのポテトを我慢した方いいと言われたとする。ラーメンとポテトそれぞれ10年ずつだと仮定して、20年分寿命が縮まっても、わたしはどちらも食べたいときに食べたいと思う。もしもほんやくコンニャクならぬ「ほんやくコマツナ」でもあるとすれば、我が家の文鳥たちにどう生きたいか意思を確認してみたい。みんな好きに生きればいい。