記憶の棚のスノードーム

茶店では普段ブラックコーヒーしか頼まないわたしが、ドトールの温かいハニーカフェオレを飲みたくなる時、季節がまたひとつ前進したことを実感する。

夕方のドラッグストアで、はちみつを手に取った。数日前からはちみつの染みたバタートーストが食べたくて仕方がなったからだ。肌寒くなるとはちみつが恋しくなるものなのだろうか。

  

運転しながら、きのこ帝国の『金木犀の夜』を口ずさんだ。きっとこの台風で、金木犀の花は皆散ってしまったことだろう。体調を崩してしばらく散歩ができなかったために、この街であの香りを嗅ぐことは出来なかった。貴重な季節を無駄にしてしまった気がして悔しい。わたしを置いてきぼりにして、季節は先へと進む。

 

木々が色づき、人々が少しずつ厚着を始める頃、どこからともなく漂ってくるこの香りの正体が金木犀なのだと気付いたのは高校生になってからだったと思う。わたしにとってあの香りは、昔住んでいた小さな家の庭に降る雪の香りとして認識されていた。

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Photo by Adam Evertsson

幼少期に住んでいた古い平家には周りを囲うように庭があり、家の敷地と同じくらいの広さがあった。居間の縁側からは10畳ほどの庭が見え、隅には大きな銀木犀の木が生えていた。その平家に住んでいる間、銀木犀の見える縁側でわたしは幼少期の多くの時間を過ごした。

 

縁側の端には本棚が並んでいて、日に焼けた本の香りがした。古本屋が居心地よく感じるのは、この頃の感覚を思い出すからかもしれない。暑い日にはスイカの種を飛ばして芽が生えるのを待った。飼っていたクワガタが亡くなった時には、アオハタのブルーベリージャムの瓶に亡骸を入れ、オルゴールをかけて弔った。怪我をした真っ白な鳩を保護したときには、回復した頃合いに偕楽園で放して帰宅すると縁側の屋根に止まっていて驚いた記憶もある。

 

母が掃除機をかけている間は、銀木犀の下に椅子を置き、天日干しの座布団と一緒に日向ぼっこをした。銀木犀の木には常につやっとした葉っぱが生えていて、変わらない景色は安心感を与えてくれた。

 

そんな銀木犀の木は、一年に一度だけ小さな庭に雪を降らせてくれた。

金木犀にオレンジ色の花が咲く一方、銀木犀は白い花を咲かせる。枝いっぱいにたくさんの花をつけた銀木犀はある日一斉に花を散らすのだ。白い花がふわふわと降る様は、本当に雪が舞っているかのようだった。わたしは本物の雪と銀木犀の雪、どちらを先に覚えたのだろう。

 

 

新居に引っ越してからも、定期的にその家の様子を見に行った。わたしたちが退去したあとは、新しく人が入った様子はなく、家はどんどん朽ちて雑草は生え放題のまま時は進んだ。

大学生になってから、急に気になって数年ぶりに様子を見に行くと、家は壊されて更地になり、月極駐車場の看板が立てられていた。銀木犀の木も、跡形もなく綺麗になくなっていた。

 

 

あの家の縁側で過ごした日々を思い起こしてみると、驚くほどに綺麗な記憶しか残っていない。そして、わたしがそれらの記憶に支えられていることに気付いたのは最近のことだった。きっとこれを原風景と呼ぶのだと思う。

 

どこを探しても、もうあの家も縁側も、銀木犀の木も見つからない。でも、記憶の棚にしまってあるスノードームを取り出せば、わたしはいつだって銀木犀の雪を降らせることができる。