音楽は薬

芸術は薬だ。処方箋なしで、時には無料で、時にはある程度の額を支払い、数分や数時間、あるいは数日、一度手に入れたら何度も服用することができる薬だ。

 

わたしは芸術という薬に何度も救われてきた。特に音楽。小学生のとき、わたしは姉の影響で合唱部に入った。歌うことの喜びを全身で知った。一時期、歌手になりたいと密かに考えていた時期もあった。歌を聴くことで、歌うことで、悲しみを肯定してくれるアーティストに、何度も、暗い海の底に沈みそうな体を引き戻してもらった。

 

ネガティブな感情は大抵悪とされる。怒りなら余計にそうだ。不機嫌はコントロールしよう、自分の機嫌は自分で取るという言葉がもてはやされ(わたしはこの言葉が心の底から嫌いである)、ご機嫌は暗黙の了解で他人から強要されるものになった。ポジティブな状態でいることが正解とされる。でも悲しみはある。どこにでも誰にでも一定の割合存在している。家族の死、虐待、事故、貧困、病気、自分ではどうにもならない環境によって苦しむことが誰にだって必ずある。

 

 

高校生の時からいままで、わたしが何度も服用したのはCoccoとサカナクションの楽曲だった。カエラちゃんにもお世話になった(『dolphin』という曲を、悲しくてたまらない時に実家の階段で一人でよく歌っていた。そうすると不思議と生きる力がみなぎってきた)。サカナクションのボーカルの山口一郎さんは鬱と戦いながらも、もがきながら芸術で人を救おうとしてくれている。雨が好きになれたのはサカナクションのおかげだ。どうしてこれらのアーティストが好きかというと、悲しみや苦しみや孤独、負の感情を肯定してくれるから。そこにある感情として当たり前のように扱ってくれるからだ。Coccoは「人は弱いものよ とても弱いものよ」と『強く儚いものたち』の中で歌っている。

 

 

わたしが長きに渡って何度も服用してきたのはCoccoの『Raining』という曲だ。未来なんていらないと思っていた赤毛のおさげ髪の女の子が、自分の感情がわからなくなってある時そのおさげ髪を切り落とす。髪を切り落としてしまったらもう切るものがなくなって、今度は自分の腕を切る。切ったら赤い血が流れてきて温かくて自分が生きていることを実感する。本当は泣きたくて仕方がないのに、あまりにも良い天気だから泣けなかった。もっと雨が降っていたら泣けたのに。

 

 

わたしも未来などいらなかった。怖くて勇気がなくて死ねないだけだった。何度も自分を鋭利なもので傷つけたくてたまらなくなった時、この曲を思い出して何度も踏み止まった。その代わり、新聞紙を床に広げて、自分の髪をジョキジョキと音を立てて切った。

 

 

この曲を、先日東京に行った時、本八幡のコートダジュールで、「鬱ソングでごめん、深夜だから許して」と言って入れた。「Cocco全然履修してきてない、でも全然いいよ」と重いなあと思っていたと思うけれど、友人らは何も言わずにそれを聴いてくれて、自己憐憫にまみれていて本当に申し訳ないけれど歌っていて泣きそうだった。高校時代の友人に囲まれて、目尻の皺にアイクリームをこれでもかと塗りまくるくらいまで生きてこの曲を今ここで歌っている、という事実が感慨深かった。

 

サカナクションについて、一番を選ぶのは本当に難しいのだけど魂を震わされる一曲を選ぶとすれば『グッドバイ』だと思う。この楽曲にどんな背景があるのかは分からないけれど、この曲を聴くと中学三年生の時に国語の教科書で高村光太郎の『道程』を読んだ時のような気持ちになる。どこに向かえばいいか分からないけれどどこかに進まなくてはならないという心細さ。

 

サカナクションはボーカルだけじゃなくてメンバーのすべてが素晴らしい、ということも改めて書き記しておきたい。楽曲として一番テンションが上がるのは『聴きたかったダンスミュージック、リキッドルームに』。本当に大好き。お洒落。身体が自然と踊りたくなる。蛇足だけどリキッドルームで行われた『エンドレス』のリリースパーティに予備校時代の友人と参加できたのは若かりし頃の大切な思い出であり自慢!

 

 

今わたしは光が少しだけ届くくらいの海に潜っていて、深海魚のような気分で過ごしている。有難いことに、処方された薬が上手く効いてきて少しずつ浮上しているという状況にある。それでもここまで辿り着いたのは、自身も病や苦悩や恐怖心と闘いながら、もがいて楽曲を作ってくれたアーティストたちの作ってくれた音楽があったからです。ありがとう。音楽は薬。

見守ることの大切さと大変さ

数あるテレビ番組の中で、日曜の朝にやっている『グッと地球便』という番組が好きだ。世界各地で奮闘している日本人に日本に住む家族がお届けものをするというのがコンセプトの番組。簡単に足を運ぶことのできない国々の様子が見られることや色んな人の人生を知れるのが楽しくて、毎週夢中になって観ている。

 

その番組には色んな親子や兄弟姉妹が出てくる。時には強い絆を感じたり、過去の不和を感じ取ったりすることもある。番組に出られている以上は良好な関係を築けているのかもしれないけれど。

 

前回はゲームの主人公に憧れてアイルランドで植物調査員になったという娘さんとそのご両親に密着した回だったのだけど、それがわたしの中では殿堂入りと言っても過言でないくらいの神回だった。

 

アイルランドで植物調査員として働く見原さん。「お母さんはピアノをやらせてくれたけど続かなかった」「お父さんは剣道をやらせてくれたけど続かなかった」「『特技は?』と聞かれたときに何もないのがコンプレックスだった」とインタビューの中で語っていた。ただ、お父さんが買ってきてくれたという『ゼルダの伝説』をプレイしている時は、主人公のリンクと同化してフィールドを駆け回っている気持ちになり、「その時何もできないというのがあったけどリンクになったときはかっこよくいろんな冒険ができる」と語っていた。

 

自宅での料理中、番組スタッフに「お母さんの料理好きですか?」と聞かれると、「めちゃくちゃ好きです。世界で一番おいしい」と答えていて、ワイプに映るお母さんは涙を滲ませていた。

 

その他にも、「何も続かないわたしを見守ってくれていた」「2人が信じてくれるわたしを信じたい」と両親に対する気持ちを話していた。

 

言葉ひとつひとつに両親への信頼と感謝が滲み出ていて、美しくて、そして純粋に羨ましかった。まさに、わたしが理想とする親子関係だった。

 

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親が子どもの行動や選択に口を出さない、というのは想像する以上に難しいことなのだと思う。わたしには子どもがいないけれど、わたし自身潔癖なところがあるので、食べものや飲みものを溢しそうになった時にすごい形相で制止してしまいそうで怖いし、自分が親の立場になった時、子どもがするひとつひとつの選択をただ見守っていられるかどうかわからない。

 

自分自身の親子関係の話をすると、わたしの父親は車種から職業、結婚相手に至るまで口を出してくる人だった。大学受験の受験校をエクセルでまとめて父に提出したら、赤字が入っていて、ほとんどが訂正されていた。「だったら最初からお父さんが決めたらいいじゃない!」と泣きながら怒った。父は教師なので、教師との結婚は認めるけどそれ以外は認めないと言い、教師ではない配偶者との結婚を頑なに拒否した。他にも色んなことを強制されてきたけれど、ここには書ききれない。

 

数年前に事が起こって、父親と縁を切ると決めた時、ついにメンタルの堤防が決壊して、およそ一年間投薬とともにカウンセリングに通っていた。話の中心は、父親の話がメインだったが、「あれもこれも指定されて強制されるのがつらかった」と話した時、カウンセラーさんは「きっとお父さん自身が不安だったんですね」と言った。「お父さんが自分自身の不安に耐えられないから、予防線を張るために言っていたんですよ」と言われて、その時初めて父親の行動が腑に落ちた。ずっと理解ができなかった父の言動が少し理解できて、カウンセリングに通ってよかったと思っている。そうか、父は不安だったのか。わたしが失敗をすることに、父自身がきっと耐えきれなかったのだろう。

 

だからこそ、『グッと地球便』の中で、ご両親が娘さんのことを見守っていたというのがすごいことだと思った。わたしも、あんな風に両親との関係を築けたらよかったな、と思う。わたしが失敗したとしても、わたしの人生だからとある程度放っておいてくれたらもっと失敗できたのにな、と思う。大人になってからようやく父の行動原理が分かったと言って、この世から消えてなくなりたかった自分の気持ちも時間も戻ってこないし、今から父との関係を修復するというのは幻想に近い話だと思っているのだけど、幻だと思っていた親子関係が実際に存在していたことに感動して、嫉妬するのではなくて、それを純粋に綺麗なものだと感じられたのが嬉しかった。

 

本当に素晴らしい回だったので、親子関係に悩んでいる方がいらしたらぜひ一度見て欲しい。

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名古屋とスウェーデン・テキスタイル展

9月の頭に名古屋に行ってきた。この日は9月6日、日曜日。名古屋で行われるある企画展の最終日。行こう行こうと思いながら後半になってくると予定が詰まって行けなくなる現象ってなんだろう。半ば諦め状態でいたのだが、週末にまたがるはずだった予定が土曜日に目処がついたことで、急遽名古屋に向かった。在来線でのんびりひとり旅。

滋賀県の近江八幡あたりの景色。滋賀には数年前に住んでいたので懐かしい。どことなく茨城に雰囲気が似ていて安心する。JR琵琶湖線を米原駅で東海道本線に乗り換えると、さらに旅感が深まってきた。

 

米原駅で購入したホットコーヒーとバウムクーヘンを片手に、いま巷で噂のてぃーかわ(『Tシャツが乾くまで』)の9話を視聴する。ここはバウムクーヘンよりフィナンシェを選ぶべきだったか。関ヶ原駅に近づくにつれ、どの辺であの合戦が行われたんだろう、と開けたエリアを見る度に思ってしまうのだけど、これはきっとわたしだけではないはず。

そして、13時前に名古屋に到着。夕方からの雨予報に備えてまずは東急ハンズへ折り畳み傘を新調しに行った。前の日傘は水戸に帰省した時に駅ビルの雑貨屋さんで購入したのだけど、カバーも無くした上にほつれが目立ってきたので、これを機に買い替えた。旅先でものを新調すると使う度に旅の記憶を思い出せる。

名古屋駅では名古屋に着いた感のある写真が撮れなかったけど、名古屋らしいマンホールを発見

名古屋駅から地下鉄東山線に乗り換え(横浜駅みたいで少し迷った。涙)、隣駅の伏見駅で下車する。駅からすぐのセブンイレブンに寄ってチケットを購入。

今日行くのは「スウェーデン・テキスタイル展 暮らしと自然に息づく北欧デザイン」。ずっと行きたかった!この辺りの道路は歩行者用の信号がなく、車用の信号で横断歩道を渡るのに結構ひやっとしたのだが、名古屋では日常的な光景なのだろうか。

歩いていたら可愛い生物のマンホールを発見。アメンボかな?と思ったらまさにそうらしい。*1名古屋との直接的な由縁はないみたいだけど、水面が連想される丸い波紋の描かれたデザインが可愛い。

 

駅から10分ほど歩いたところにスウェーデン・テキスタイル展の大きな看板が出現。名古屋市美術館は白川公園という大きな都市公園の中にある様子。

白川公園は名古屋駅から10分ちょっととは思えないほど、緑が豊富で広大な公園だった。近頃は節水なのか噴水が止まっているところも多いけど、こちらの公園は水が循環していて清々しかった。

中にはFUJIなごや科学館という大きな科学館もあった。真ん中の大きなドームに圧倒される。プラネタリウムだろうか。ちょうど『スケスケ展2』という特別展が開催中で、親子連れで賑わっていた。

科学館を左手にして進んでいくと、ようやく名古屋市美術館に到着。雨がぱらついてきた。

最終日ということもあってチケットカウンターはやや行列気味。滑り込みだけどなんとか辿り着けたよ。やったー!館内は基本的に撮影禁止だったが、展示の初めの部分と一部のテキスタイルは撮影可能だった。

展示室はスウェーデンでのテキスタイルの歴史やモチーフのテーマごとにテキスタイルが展示されていた。至る所に柄が溢れていて、柄好きとしてはもう多幸感に溢れまくっていた。残念ながら撮影はできないエリアだったけれど、田舎の結婚式をテーマにしたテキスタイルや「生活」をモチーフにしたテキスタイルのエリアに胸が躍った。キッチンツールや食材がモチーフになっていて、どことなく日本の昭和のデザインにも近しい、懐かしさを感じた。

 

そして、ポスターのデザインにも採用されいるヴァンニャ・ジャナイエフの『スヴァーン(白鳥)』。幼少期から通っていた千波湖に多く生息していることから、わたし自身の中で白鳥は鳥の中でも特別で、家紋みたいに鳥をモチーフにした印が作れるなら白鳥で作りたい、というくらいに思い入れがある。

吹き抜けの部分を活用して、縦長の布が2階の天井から壁に沿うようにして展示されていたのもよかった。鮮やかで壮大で、ぱあっと気持ちが明るくなるような展示だった。2階から見る景色もまた良し。

個人的に印象的に残っているのはこの青と白の2色でできたテキスタイル、チキ・マットソン『ルーティグト(格子柄)』。日本に強い影響を受けたデザイナーということで、どことなく藍染とか手ぬぐいを連想させるようなデザイン。でもよく見ると青色は藍のような青というよりも紫寄りの青だったり、柄のひとつひとつが日本の伝統的な花柄よりもポップな印象を受ける。きっと、浴衣にしたら可愛いだろうなあ。

後悔のないよう、もう一度一階の展示をみに降りて目に焼き付けた後、ミュージアムショップで白鳥モチーフの作品『スヴァーン(白鳥)』のグッズなどを購入し、名古屋市美術館を後にした。外に出ると雨足も強まっていて、早速さっき購入したばかりの日傘(兼雨傘)を差して公園内を歩いた。

 

展示で歩き回り、エネルギーを思いの外消費してお腹もぺこぺこに。通り沿いにあった大戸屋に駆け込んだ。名古屋グルメも食べたいけど、とてつもなく大根おろしを使った和食が食べたくなってしまった。

チキンかあさん煮定食の雑穀米大盛りを注文。お味噌汁を期間限定のきのこ汁に替えて浅漬けもつけてしまった。温かいご飯が恋しい季節に移り変わりつつある。

早めの贅沢な晩御飯を済ませて、すぐに電車に乗って来た道をなぞるようにして帰った。

帰り道、空調で冷えたのか急な腹痛で滋賀県の南草津駅で途中下車したら、いつの間にか電車が一部運休になっており、結局二時間弱も帰宅時間が遅れたのだった。名古屋でもう少し寄り道して帰ればよかったなあと思いつつも、これもまた旅らしいなと思った。

お盆と自由席と台風上陸

お盆に久しぶりに地元に帰った。帰った……とは言ってもほとんどは東京にいて、地元の水戸には丸一日もいなかった。今回はお盆休みの数日間の回顧録。

 

一日目、新幹線の自由席で東京へ。わたしは根っからのぷらっとこだまユーザーで、東京関西間の移動となれば最大限にぷらっとこだまを使う。時には課金をしてグリーン車に乗ることもある。某旅行会社で働いている知り合いにこの話をしたら「信じられない!」という反応をもらったが、わたしにとって優先順位のダントツ一位は混んでいないことで、急いで移動するというのは二の次なのである。ゆったり過ごしながら移動時間を楽しむことに価値があると思っている。

 

よっぽどのことがない限り繁忙期に帰省ラッシュに参加することはないのだが、今回は目的がお盆のど真ん中にぶつかった。ぷらっとこだまは販売期間外のため、人生でおそらく初めての新幹線の自由席の切符を買った。自由席の乗り方が分からない。何が自由で何が不自由なのだろうか。繁忙期の新幹線は、自由席ではひかりとこだましか乗れないようだ。混雑した駅でわたわたしないように、家を出る前におにぎりを握り、余っていたお菓子をジップロックにまとめ、一目散に新幹線のホームへと向かった。

 

昼間のこだまの自由席、がら空きだった。新大阪からわたしと同じ号車に乗り込んだ人は5人しかいなかった。東京に着くまで、結局隣には誰も乗って来ず、どの席も相席になっていなかったと思う。おにぎりやおやつをつまみながらドラマを観たり、昼寝をしたり、自分にとっての新幹線の最適解を見つけた気がする。

 

東京に着くと暑すぎて驚いた。噂にはもう秋めいていると聞いていたので、あまりにも夏すぎて、身体も気持ちも追いつかない。神保町を散策しにいくつもりが、寄り道せず宿に向かいまずシャワーを浴びた。支度をして本八幡のコート・ダジュールへ。30代半ばの身体には堪えるオールでカラオケを決行する。

 

着いてから2〜3時間は、ただお酒を飲みながら話していたので、飲み物を運んでくる店員さんがやや戸惑っていた。結局、朝まで誰も離脱せず、明け方はハロプロ縛りでモーニング娘。や松浦亜弥、プッチモニなど小学生時代に流行った曲をメドレーで歌った。30代、まだまだ行けるぞ。わたしたちは思いの外若かった。ただ、久しぶりにオールをして思ったのは、寝不足は胃が気持ち悪くなるということ、夏の朝の5時はかなり明るいということだった。

 

駅で解散し、宿に戻って仮眠を取った。シャワーを浴びて上野のペンスタで推し活を兼ねてモーニング。上野東京ラインで東京駅へ。旅の一番の目当てだった坂崎千春さんの『ハピネス ペンギン』展を観に行く。

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新作版画の丸いフレームが可愛い…!『ペンギンとセルフケア』の絵が本当にツボすぎて楽しみにきたのだが、今回は初見ということで版画は我慢してグッズのみ購入。その後、地下のカフェで丸善で購入したばかりの本を読みながらしばし休憩。途中まで飲んだアイスコーヒーを持ちながら移動していたら東京駅にゴミ箱が全くなくて困った。捨てる場所がなく、泣く泣く店舗に入れずそのまま電車に乗った。

 

お昼ご飯を済ませられていなかったので新宿の改札内のそばいちで蕎麦を食べて小田急線へ。姉夫婦に合流すると、初めて降り立つ町田の街を案内してくれた。昔ながらの町田仲見世商店街では配偶者に昼寝用のい草枕をお土産に購入。その後は姉夫婦がよく通っているという磯丸水産で昼から飲んだ。親族と昼から酒を飲むなんてお盆らしくていいじゃないか。店内はまるで親戚の集まりのような団体客で賑わっていた。

 

その夜は姉夫婦の家にお世話になった。その日、日本列島には複数の台風が近づいており、町田を出る時にはすでに豪雨。同時に、翌日約束をしていた友人から連絡が入る。搭乗手続き後に飛行機が欠航になり、福岡空港で足止めを食らって帰れなくなったとのこと。残念ながら予定もなくなってしまったので、次の日は姉の家で昼すぎまでゆっくりさせてもらうことになった。リモートワークする姉を脇目に、リビングで姉夫婦おすすめの『梨泰院クラス』を見ることにした。面白い!!!!!6年越しにようやくこの大ヒット韓国ドラマの面白さを思い知ることになった。

 

姉と昼食のパスタを食べた後、町田を後にして桜木町駅へと向かう。姉と数時間ふたりきりで過ごすことはここ数年なかったのだが、近すぎるとあまりいい関係が築けないことを改めて実感した。もっとゆっくりしていきなよ、と言ってくれたが、振り解くようにして帰ってきてしまった。自分でもよく分からないが気を遣いすぎてどっと疲れた。桜木町駅に着くとコインランドリーに洗濯物を回しに行った。その間にペンスタ桜木町店でSuicaのペンギンのグッズを購入。暑さの中、再び乾燥機をかけにコインランドリーへ戻り、(ああ…わたしは旅先で暑い中何をしてるんだろう…)と思いつつ、清潔な衣類たちを見てようやく気持ちが上向きになった。

 

なんだか今回は移動ばかりしているな。今度からは宿を一か所に決めてそこを起点に動こう、と反省した。拠点がない状況は精神的に結構来る。気付いたらもう夕方になっていて、東京駅の八重洲口のバスターミナルで水戸行きの高速バスのチケットを買った。大学生の頃はいつも高速バスで帰省をしていたのでその頃が懐かしい。今では常磐線で帰ることが増えたが、高速バスは乗車待ちの列に並んでいるだけで故郷に帰ってきたような安心感があってそれまでの緊張が緩む。

2年ぶりの水戸。駅に降り立ったら寒すぎて笑ってしまった。茨城は時々冗談で南東北と言われるが、この寒さじゃ本当に東北の仲間入りだ。水戸駅周辺はラッキーフェス帰りの人で賑わい、楽しげな雰囲気だった。さらにここから電車に乗り、友人の住む最寄り駅に着く。駅前のスーパーに寄ったら店の入り口にこんなポップがかかっていて、大袈裟でなく店内で少し泣いてしまった。いつまでも変わらない大好きなふるさとへ、ただいま帰りました。

わたしが駅に着いたのと同刻くらいに福岡から帰ってきたばかりの高校時代の友人C。こんな状況で申し訳ないけれど快く泊めてくれた。お互い大きな荷物を抱え、お土産を交換し合い、寝支度を整えてそそくさと寝た。旅の中で一番リラックスして眠ることができた。ありがたい。わたしは本当に友達に恵まれる人生だ。

 

翌朝、数時間の滞在を終えて、Cの家を後にして実家へと向かう。実家に寄るのは祖母の葬式ぶり。宿敵の父が甲信越地方の祖父母の家に帰るタイミングを見計らって母に会いに行った。奇しくもこの日、統計開始以来初めて茨城県に台風が上陸した。水戸芸術館など、夜までゆっくり水戸の街を巡る予定だったが、15時前には常磐線に乗らないと台風に追い付かれる。

 

実家に帰ると母の作ってくれたポテトサラダとゴーヤチャンプルーを食べた。美味しくてお皿に盛った分すべて平らげてご飯をおかわりした。ゴーヤチャンプルーはまだ実家に住んでいた頃によくふたりで作っていた。当時はゴーヤの苦味が苦手で、薄切りにして塩揉みをして苦味をとっていたが、いまはこの苦味がクセになる。遅めの朝ごはんを食べたあとは大型スーパーへ義実家へ送る梨を買いに行き、ヤマトの営業所で配送の手続きをした。そのまま帰宅してまたお弁当を食べ、出勤前の母に水戸駅まで車で送ってもらった。

 

結局、ハプニング続きで水戸には丸一日もいれなかった。でも、仏壇にお線香をあげることができて、母と数時間でも過ごすことができて、Cの顔も見れたので良かった。案の定、夕方くらいから常磐線は大幅な遅れが出ていて、数十分でも遅ければ足止めをくらっているところだった。時間に余裕があったので、北千住で銭湯に入り、移動の疲れを癒した。

その翌日は関西で予定があったため、そそくさと東京を後にした(帰りは八重洲から夜行バスで帰った)。風と雨が凄すぎて、道中に死ぬのではと一瞬覚悟しましたが、無事に辿り着きました。不幸中の幸いだったのは、台風に追いかけられる間一度も傘を挿す瞬間がなかったことだった。

レモンの輪切り

アイスのサクレを食べた。レモンの輪切りが丸ごと一枚入ったサクサクした食感の氷菓。もう何年も口にしていなかったのに、急に食べたくなったのはSNSでサクレをオンザロック方式でアイスティーに溶かして食べると美味しいという投稿を見たからだった。

 

食べものの記憶というのは不思議だ。その料理の美味しさよりも、どこで誰とどんな雰囲気で食べたかの方がより鮮明に記憶として残っている。

 

サクレのレモンの輪切りを見て思い出したのは、地元の千波湖の湖畔にある好文茶屋というお茶屋さんで食べたサクレのことだった。当時住んでいた家から千波湖はほど近く、よく父親とサイクリングに行って白鳥や黒鳥、あひる、カモなど水鳥を見に行った。千波湖の西側には水戸光圀公像があり、その目と鼻の先に好文茶屋があった。みたらし団子を食べる時が多かったが、その日は冷凍ケースからサクレを選んで外にあったお茶屋さんらしい赤い長椅子で食べた。

 

氷の部分は甘酸っぱくて美味しくても、幼いわたしにとってレモンの輪切りは苦すぎた。だから毎回父親に食べてもらっていた。もう何年も忘れていたのに、レモンの輪切り、夏の日差し、茶屋から見える枝垂れ桜を写した映像が鮮明に思い出された。

 

そのことを思い出さないために、これまで長い間サクレを食べずに避けて通っていたような気がする。父親には祖母の四十九日法要に行って以来、もう5年近くあっていない。父親のことを思い出すと心臓ががたがたと震えて、細胞がばらばらになっていく感じがした。時間が経って、少し前からは大丈夫になった。物理的にも精神的にも距離が取れたからだと思う。

 

今日の朝、飲み会の予定を追加しようとカレンダーを見ていたら、その日がちょうど父親の誕生日だったことに気付いた。知らぬ間に後期高齢者と呼ばれる年齢になっていた。

 

レモンの輪切りを食べてくれた優しい父。あの父はまだ今もどこかにいるのではないかと思ってしまう時がある。生きているうちにまたどこかで会えたらいいのに。レモンの輪切りはまだわたしには苦かった。

豆ごはん

GOAT最新号の「わたしの偏食」エッセイを読んでいたらわたしも書きたくなった。わたしの偏食アイテムは豆ごはんだ。

 

最寄り駅のすぐ近くに、ひっそりと佇んでいる小さな居酒屋さんがある。居酒屋さんというよりも小料理屋さんと呼ぶべきかもしれない。自分の父親くらいの年齢の方がひとりで切り盛りされているお店で、その料理に魅了され、新メニューができるといてもたってもいられず、月に一度は通っている。

 

そのお店のメニューは和食がメインで、ビールと日本酒に合う料理が多い。店主は定年近くまで仕事を勤められてから(後で知ったが元同業者だった)、お寿司の学校に通い、知り合いのお店で修行したのちにそのお店をオープンされたとのことで、何歳になっても一から勉強するという心意気にまず感銘を受けた。

 

ひとつひとつの料理がこだわって作られていて、特に、夏野菜の南蛮漬けというメニューだと、素材同士の色移りを避けるために、7つのタッパーに分けてお出汁に漬けていると聞いて驚いた。店主は「家でもできますよ」とまるで大したことないという顔で言うのだが、「いやいや、そもそも家にタッパーが7つもないんですよ」と言うと隣のお客さんが笑ってくれた。

 

その店でわたしが一番虜になっているのは締めのメニューとして最後に並んでいる豆ごはんだ。粒の揃ったえんどう豆は、炊かれているのに鮮やかな緑色をしていて、ひとつも形が潰れておらず、程よい塩加減とお米の甘さがたまらない。豆料理は好き嫌いが分かれると思うが、わたしは母譲りの大の豆好きで(母はよく豆入りのミネストローネを作ってくれた)、この豆ごはんがわたしの中で大ヒットした。

 

初めはもちろん、一通り飲んだ後に締めとして汁物と一緒にいただいていたのだが、そのうち、帰り際に「持って帰りますか?」と店主から声をかけてくれるようになった。そのお店は決まった曜日限定でオープンしているので、余りが出るよりも持ち帰った方が店側としても有難いのだろう。お互いウィンウィンである。最初小さなタッパーに入れてもらっていたのが、次に返却にいくとさらに倍の大きさのタッパーに詰めてくれるようになり、いつの間にか豆ごはん定期便が始まっていた。

 

一度には美味しく食べきれないので、小分けにして冷凍しておく。解凍するときに少量のお水を足して温めるとまた美味しく食べられる。豚汁や具沢山のお味噌汁を自分でこしらえると、あっという間にご馳走が出来上がる。この豆ごはんをメンタルが落ちている時や生理中など、体調が思わしくないときに食べるとみるみる気持ちが満たされて穏やかになっていく。いつからか、豆ごはんはお守りのような存在になっていた。

高松・直島一人旅 〜地中美術館〜

5月下旬に行った高松・直島一人旅二日目について写真中心でまとめました。一日目はこちらから。

misoshiruko.hatenablog.com

朝起きて、優雅にホテルの大浴場で朝風呂に入って支度をする。高松駅前のロッカーに荷物を預けようとしたところ、PiTaPaは使えない&手持ちの現金では足りないというハプニングに見舞われ、慌ててATMにお金を下ろしに行く。フェリーに乗る前に朝ごはんを調達しておくつもりが、空腹のままバタバタと駆け込むようにしてフェリーターミナルに着いた。

もう出航の準備が始まってしまっているのでは……と焦りを抱えながらチケット売り場へ向かう。わたしが到着したのはフェリー出航の30分位前だったのだが、鼻息の荒いわたしとは裏腹に、待合所にはのんびりとした空気が流れていた。チケットも無事に購入でき、思いの外時間が余る。この日も温かい飲み物でお腹の安寧を願う。

出港前のフェリーターミナルの景色

土曜日ということもあり、待合室は人でごった返していた。欧米人観光客が目立ったが、韓国語を話している方が多いのが印象的だった。高松空港は韓国への直行便が運行しているらしい。韓国の済州島にはいつか行ってみたいなと思っているのだが、もしかしたら直島の雰囲気は済州島と似ている部分が多いのかなと思った。

船から見た高松港

乗船したのは高松港と直島の宮浦港を50分で繋ぐフェリー。景色を楽しんでいる間にあっという間についてしまった。

フェリーから見た直島 宮浦港

乗船したフェリー:なおしま

宮浦港に着くと、草間彌生さんの『赤かぼちゃ』が出迎えてくれる。すでに撮影を楽しむ人が集まっていた。

下船すると、TVC直島レンタルさんへ予約していた自転車をピックアップしに行く。わたしは身長が低いので、大人用で一番小型の自転車を予約した。コンパクトで可愛い。そして、この日が記念すべき電動自転車デビューとなった。

本日の相棒

腹が減っては旅行はできぬということで、まずは島に唯一あるコンビニで朝食を買う。サンドイッチとメロンパン、コーヒーを前カゴに入れると、景色のいい場所を求めて海岸線を進み出した。少し坂を登ったあたりにここでどうぞ召し上がれと言わんばかりの絶好な公園を発見。幸先がいい。

フェリーに乗る前に済ませられなかったけれど、結果的にこんなに素敵な景色を眺めながら朝ごはんを食べることができた。地中美術館の入館時間まではしばらく時間があるので、ゆっくり過ごす。朝食を食べていると、宮浦港からは新たに赤いダイヤ柄の塗装が施された岡山行きのフェリーが出航して行った。

プライベートビーチのようなブルーグリーンの海を堪能したあと、島の海岸線を東回りに進んでいく。急な坂道が続くので、電動自転車の恩恵に存分に預かる。前回来た時はママチャリを借りたのだが(しかも土砂降りだった!)、あれは若さでカバーできたのだなあと実感した。多分、いまママチャリでこの島を走ったら、坂を登りながら泣いていると思う。

 

12時すぎに地中美術館に到着。館内で撮影できるのは入り口からショップまでのエリアで、それ以降は撮影禁止。カメラをしまい、五感を研ぎ澄ませて展示を回る。

名前の通り、建物の半分が地下に埋まるようにして建設されているという地中美術館。打ちっぱなしの無機質な建物が印象的だった。光の入り方や幾何学的な窓や造りに、地元にある水戸芸術館と親和性を感じてなんだか懐かしい気持ちになる。

ミュージアムショップを抜け、三角形の建物をぐるぐると下がったり上がったりして進んでいくと、念願のモネの展示室に着く。ようやくまた『睡蓮』を見ることができた。一度目は人の多い時間帯だったので、地中カフェでコーヒーを飲んで一息ついてからもう一度行ってみたら、ちょうど人の少ない時間帯で、自分の視界に『睡蓮』の絵を全面に収めることができた。タレルの『オープン・スカイ』は、自然と人工が掛け合わされた新しい静寂を感じた。

地中の庭

地中カフェのテラスから見た景色

あの壁一面に広がる大きなキャンバスに描かれた絵を見た後、このブログを書いていると、言葉を尽くすよりも1枚でも写真を残した方が伝わるものがあるのではないかという気持ちになる。目から得る情報の強さを感じた。

せっかく直島に来たので、さらに自転車を走らせて、『南瓜』も見に行った。この展示物は2021年8月の台風で被害にあったが、翌年の2022年の10月に復元制作ののち再展示されている。いまだに、撮影の人気スポットであり続けているようで、絶え間なく写真撮影待ちの人が列を成していた。

その後、海水浴場の近くの木陰のベンチで涼を取りながらしばし休憩。この日は5月下旬というのに日差しが強く、熱中症になりそうなくらい体力が持っていかれる。昼食をまだ済ませていなかったので、遠回りして宮浦港方面へと戻る。この時点ですでに走行距離は8km近い。

 

疲れた時に食べたいものは決まっている。坂道の上にある直島町総合福祉センターに入っている、なごみという食堂へと向かう。

施設内には子どもの声が響いていて、プール帰りと思しき姿の小学生がちらほら見受けられた。島で育つってどんな感じなんだろうな。直島は離島ではあるけれど、高松にも岡山にも1時間かからずに行けるから、自分が想像しているよりも案外都会的で暮らしやすいのかもしれないな、と考えたりした。

食券機でビーフカレーを注文。この時代に、コーヒー付きで850円はありがたい。日差しをたっぷり浴びて、程よい疲労感の溜まった体にカレーが染みる。食堂内には神々しい西日が差していた。

帰りのフェリーの時間が近づいてきた。自転車を返却して、宮浦港のベンチで外を眺めながら待った。この頃になると、もう早く家に帰りたくなってくる。あんなにどこかに行きたいと思っていたのに、今ではもう帰りたいと思っている。旅はいま自分が本当はどこに居たいのか、改めて再認識させてくれる。

高松行きの帰りのフェリーは全員乗り切れるのかと思うほどの人がいて、ほとんど満席だった。幻のような世界から、現実の世界へと少しずつ戻っていく。高松港に着くと、少し曇っていて、寂しい空が広がっていた。このままわたしは夜のフェリーで自分の住む関西へと帰った。