芸術は薬だ。処方箋なしで、時には無料で、時にはある程度の額を支払い、数分や数時間、あるいは数日、一度手に入れたら何度も服用することができる薬だ。
わたしは芸術という薬に何度も救われてきた。特に音楽。小学生のとき、わたしは姉の影響で合唱部に入った。歌うことの喜びを全身で知った。一時期、歌手になりたいと密かに考えていた時期もあった。歌を聴くことで、歌うことで、悲しみを肯定してくれるアーティストに、何度も、暗い海の底に沈みそうな体を引き戻してもらった。
ネガティブな感情は大抵悪とされる。怒りなら余計にそうだ。不機嫌はコントロールしよう、自分の機嫌は自分で取るという言葉がもてはやされ(わたしはこの言葉が心の底から嫌いである)、ご機嫌は暗黙の了解で他人から強要されるものになった。ポジティブな状態でいることが正解とされる。でも悲しみはある。どこにでも誰にでも一定の割合存在している。家族の死、虐待、事故、貧困、病気、自分ではどうにもならない環境によって苦しむことが誰にだって必ずある。
高校生の時からいままで、わたしが何度も服用したのはCoccoとサカナクションの楽曲だった。カエラちゃんにもお世話になった(『dolphin』という曲を、悲しくてたまらない時に実家の階段で一人でよく歌っていた。そうすると不思議と生きる力がみなぎってきた)。サカナクションのボーカルの山口一郎さんは鬱と戦いながらも、もがきながら芸術で人を救おうとしてくれている。雨が好きになれたのはサカナクションのおかげだ。どうしてこれらのアーティストが好きかというと、悲しみや苦しみや孤独、負の感情を肯定してくれるから。そこにある感情として当たり前のように扱ってくれるからだ。Coccoは「人は弱いものよ とても弱いものよ」と『強く儚いものたち』の中で歌っている。
わたしが長きに渡って何度も服用してきたのはCoccoの『Raining』という曲だ。未来なんていらないと思っていた赤毛のおさげ髪の女の子が、自分の感情がわからなくなってある時そのおさげ髪を切り落とす。髪を切り落としてしまったらもう切るものがなくなって、今度は自分の腕を切る。切ったら赤い血が流れてきて温かくて自分が生きていることを実感する。本当は泣きたくて仕方がないのに、あまりにも良い天気だから泣けなかった。もっと雨が降っていたら泣けたのに。
わたしも未来などいらなかった。怖くて勇気がなくて死ねないだけだった。何度も自分を鋭利なもので傷つけたくてたまらなくなった時、この曲を思い出して何度も踏み止まった。その代わり、新聞紙を床に広げて、自分の髪をジョキジョキと音を立てて切った。
この曲を、先日東京に行った時、本八幡のコートダジュールで、「鬱ソングでごめん、深夜だから許して」と言って入れた。「Cocco全然履修してきてない、でも全然いいよ」と重いなあと思っていたと思うけれど、友人らは何も言わずにそれを聴いてくれて、自己憐憫にまみれていて本当に申し訳ないけれど歌っていて泣きそうだった。高校時代の友人に囲まれて、目尻の皺にアイクリームをこれでもかと塗りまくるくらいまで生きてこの曲を今ここで歌っている、という事実が感慨深かった。
サカナクションについて、一番を選ぶのは本当に難しいのだけど魂を震わされる一曲を選ぶとすれば『グッドバイ』だと思う。この楽曲にどんな背景があるのかは分からないけれど、この曲を聴くと中学三年生の時に国語の教科書で高村光太郎の『道程』を読んだ時のような気持ちになる。どこに向かえばいいか分からないけれどどこかに進まなくてはならないという心細さ。
サカナクションはボーカルだけじゃなくてメンバーのすべてが素晴らしい、ということも改めて書き記しておきたい。楽曲として一番テンションが上がるのは『聴きたかったダンスミュージック、リキッドルームに』。本当に大好き。お洒落。身体が自然と踊りたくなる。蛇足だけどリキッドルームで行われた『エンドレス』のリリースパーティに予備校時代の友人と参加できたのは若かりし頃の大切な思い出であり自慢!
今わたしは光が少しだけ届くくらいの海に潜っていて、深海魚のような気分で過ごしている。有難いことに、処方された薬が上手く効いてきて少しずつ浮上しているという状況にある。それでもここまで辿り着いたのは、自身も病や苦悩や恐怖心と闘いながら、もがいて楽曲を作ってくれたアーティストたちの作ってくれた音楽があったからです。ありがとう。音楽は薬。









最終日ということもあってチケットカウンターはやや行列気味。滑り込みだけどなんとか辿り着けたよ。やったー!館内は基本的に撮影禁止だったが、展示の初めの部分と一部のテキスタイルは撮影可能だった。





































