気だるい夏

暑い。夏は毎年暑いが今年の夏は一線を超えている。外に出ると温水プールの中を延々と泳いでいるような感覚になる。気だるいのは暑さのせいだけかはわからない。

 

パリオリンピックが始まった。スポーツは好きだけれど、何の試合も見ていない。というか、見る気になれない。オリンピックって平和の祭典じゃなかったっけ?パレスチナでは今でも多くの人が虐殺されている。それは関係ない?オリンピックなんてやっている場合じゃなくない?と思うけれど、周りに結構楽しんでいる人がいることを知ってショックを受けた(だからといって見ている人を敵とみなしているわけではない)。オリンピックを見る見ないに限らず、本当は歪み合わなくていいはずなのに、一つのことをする・しないで本来は不必要だったはずの分断が生まれてしまうことにも悲しさを覚える。

 

テレビもほとんど見なくなった。たいていオリンピックの話題しかやっていないのでうんざりする。最近、ニュースというニュースを見たいと思った時に何を見ればいいのかよくわからない。世界各地や日本国内で起きている「事実」をありのまま淡々と伝えてくれるテレビ番組は今、ないような気がする。

 

元旦に起きた地震で被害を受けた能登の復興があまりにも進んでいない。能登町では、5月2日になってやっと断水が全域で解消されたそうだ。町はまだまだ瓦礫の山でいっぱいだ。仮設住宅の完成も遅れている。山形県は集中豪雨で最上川が氾濫し、深刻な被害にあった。テレビでは、悲劇的な映像ばかりにクローズアップされ、ほとぼりが冷めると触れなくなる。最新の情報を知ろうとすると、ツイッターで検索した方が現地の様子がよく分かったりする。

 

平和とは広辞苑では「やすらかにやわらぐこと。 穏やかで変わりのないこと」や「戦争がなくて世が安穏であること」と定義されている。

平和とは何か、自分なりに考えてみた。わたしが思うにそれは「人を弔う余裕のあること」だと思う。

 

ガザ地区で今起きているショッキングな映像を見た夜、わたしはある夢を見た。ある父親が亡くなった自分の子供を抱えながら街中でプラスチックの小さなケースを買っている。そのプラスチックケースは子供を埋葬するための棺代わりのもので、飛ぶようにたくさん売れていく。

 

その夢を見たとき、怖くなって起きた。それだけで十分に悲しくて酷い映像だった。でも現実にはプラスチックケースなんて売られていないし、遺体は綺麗ではない。人の形すら留めていないものもある。

 

人が亡くなることはこの世で一番悲しくて恐ろしいことだ。人を見送るためには金銭的にも精神的にもある程度の余裕が必要だと思う。今のパレスチナも、能登も山形も、その余裕がない人たちがいっぱいいる。それは決してその人たちの責任ではないはずなのに、助ける力のある人たちが一向に手を差し伸べようとしないことがわたしは恐ろしい。