咲いてても枯れてても、花

現代社会での生き方のススメとして「なるべくストレスを溜めないように過ごそう」という抽象的なアドバイスは少なくなり、いつからか「SNSから離れよう」とSNSを名指しする具体的なアドバイスが目につくようになった。デジタルでの繋がりを遮断することを目的に、デジタルデトックスなんて言葉さえ頻繁に聞くようになった。

幸せの国とも呼ばれているブータンの幸福度が下がっているのは、SNSで他人の生活が垣間見えるようになったからだとも言われている。

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隣の芝はいつだって青い。それは、隣人が事実として青く保つ努力をしているからかもしれないし、単に見ている側が物の青く見える眼鏡をかけていただけかもしれない。実は人工芝だったという可能性もある。本当に芝が青い時もあれば、故意的に青く「見せようと」している可能性だって十分にある。

 

高い塀に囲まれて隣人に見えない裏庭は、実は草がぼうぼうに伸びきっているかもしれない。見えるものばかりを迂闊に信用して自分のものと比べて、勝手に羨んだり落ち込んだりするのはただの取り越し苦労かもしれない。 

 

 

高校生の頃、わたしはずっと自分でいることが嫌だった。自分にはなんの価値もない。誰かにくれてしまいたい。生きていることが、いまよりももっと価値のないものに思えていた。だからずっと、わたしという人間がただの着ぐるみで、簡単に脱ぎ捨てることができたらいいのにと願いながら眠りにつくことばかりだった。

 

内心では人に壁を作っていながらもそれを隠し、学校ではいつもニコニコして、「全然平気な人」のフリをした。目立つことは嫌いではなかったので、文化祭ではレインボーカラーのアフロヘアのかつらを被ってみたり、通学時には蛍光ピンク色のジャンパーを羽織ったり、スニーカーの靴紐を左右変えてみたり、意図的に色んな色で着飾った。裏庭が汚く、草花が枯れきっていることを隠すように、人目につく庭を青く見せようと、芝にペンキを塗りたくっていた。

 

わたしにはお昼にいつも一緒にお弁当を食べる相手がいなかった。小集団に入るのは面倒くさいというよりも、単純に馴染むスキルを持ち合わせていなかった。早弁して昼休みを図書室で過ごしたり、保健室で先生と話をしながら食べる方がずっと気楽だった。それも全部「わたしは全部ひとりで平気だから」ということにして振る舞っていた。

 

 

ある日の放課後、あるクラスメイトの女の子と教室でふたりきりになった。当番が一緒だったとかそんな理由で、たまたま帰りが遅くなって居合わせただけのことだ。

彼女はわたしのように廊下の一番向こう側に見える部活の同期を大声で呼ぶようなことはしないし、生徒手帳に描いてある見本の通りに制服を着こなすような生徒だった。彼女とは目が合ったら簡単な会話をするくらいの間柄で、わたしは彼女を「京子ちゃん」と下の名前で呼び、京子ちゃんも同じく、わたしのことを下の名前でちゃん付けして呼んでいた。

 

ふたりきりで話をするのは初めてだった。また今日もいつものように差し障りのない話をするだけだ。そう思って部活に行く支度をしていた矢先、京子ちゃんはわたしに「いいなあ。わたし生まれ変わったらシルコちゃんになりたい」と言った。

  

その一言の衝撃の強さは、それから何日か経った週末に、当時地元の駅前にあったイタリアントマトで友人と勉強をしている最中、(わたしクラスメイトに「あなたになりたい」って言われたんだ…)と手を止めてうっとりしてしまうほどだった。

 

自分の着ぐるみなんか脱ぎ捨てたいと願い続けて毎日を過ごしていた人間にも、生まれ変わったらあなたになりたいと言われることがあるんだ。そんなの想像もしていなかった。

 

どうして京子ちゃんがそんなことを言ったのか尋ねたが、聞いたことはもう忘れてしまった。ふんわりと残っている印象は、わたしが京子ちゃんの目に自由な人として映っていたらしいことだ。それはある意味故意的に、わたしが自分の不自由さを誤魔化すために、いろんな色で着飾って、人には構わないと振る舞っているだけ、一言でいえば演出していただけなのに。

 

きっと京子ちゃんは、わたしに一ヶ月間生まれ変われるプライム体験に登録できたとしても、すぐに解約手続きをすると思う。あーあ、遠目ではすごく自由に見えたのに全然そんなことなかったと肩を落とすのだろう。

 

 

見える部分を着飾るのは簡単だ。寝不足で作った目の下のクマはオレンジ色のコンシーラーで塗りつぶせばなんとかなるし、肥大したウエストもペプラムトップスを着てしまえばなんてこともないように見せることができる。

 

SNSで見えている世界も、本当か嘘かは別として、人様に見せようと思って見せている全体のうちのごく一部分にすぎないのだ。ありのままの姿よりも、誰かの思惑や欲求で演出されていることの方がよっぽど多い。

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花瓶に生けた花の写真を撮るとき、普段テーブルには文鳥の食べこぼした餌が散らばっていたり、コーヒーのしずくの跡が残っていたりするのに、映る一部分だけを拭き取って写真に収めてしまう。見た人には「この人は綺麗で丁寧な生活をしているんだ」という錯覚を生む。浴槽にうっすらと赤カビが滲んでいても、トイレの隅に溜まった埃がドアを開け閉めするたびに浮遊しても、言わなければ誰にもバレることはない。

 

わたしの好きな映像作品にドラマの『カルテット』がある。特に好きなシーンのひとつに、同居する四人がリビングのテーブルに座って、自分の考えたことわざを口々に言うシーンがある。「咲いても咲かなくても、花は花ですよ」「起きても寝てても生きてる」「つらくても苦しくても心」。

 

ものが収まるべきところに収まっていて整頓された清潔な部屋も、カップ麺の食べ残しや空のペットボトルが置きっぱなしの荒んだ部屋だって、どちらも生活であることに変わりない。切り取られた一部分をみて勝手に苦しむ必要はない。わたしは意地悪なので、綺麗な部屋の写真を見ても片隅にたまっている埃の方を想像してしまう。