祖父のこと

終戦から79年目の夏。わずかな記憶に伝聞や写真を繋ぎ合わせて、母方の祖父のことを書いてみようと思う(ここでは基本的に祖父・祖母は母方の祖父母のことを指す)。

祖父はわたしが小学三年生の時に亡くなった。人の死を経験したのはその時が初めてだった。正直なところ、祖父のことで覚えていることはとても少なくて、どんな声をしていたかも思い出せない。

 

亡くなった時祖父は八十歳だった。祖父はボーイスカウトをしていた時の名残か、いつも深緑色のベレー帽にエンブレム付きのベストをつけ、カメラを首から下げていた。家族行事の時はいつも撮影役に周っていて、一番記憶に残っているのはこちらにカメラを向けてレンズを覗き込んでいる姿だった。そんな祖父は右手でシャッターを押さえ、黒い皮の手袋をつけた左手を添えていた。

 

祖父は運動会や家族行事で外で会う時だけでなく、家に遊びにいっても常に左手に黒い手袋をはめていた。戦争で手を失っていたからだ。

 

祖父はいわゆる傷痍軍人だった。どんな部隊にいたとか、どういう内容だったのかは詳しいことは残念ながらわからない(伯父なら知っていたかもしれないが、不慮の事故で亡くなったので聞く機会を失ってしまった)。祖母や伯父が元気だった間に、戦争に関心を向けて話を聞いてみようとしなかったことをわたしは後悔している。

 

祖父は生前、水戸駅の近くで本屋を営んでいたそうだ。幼かった母は自分で作ったアクセサリーを棚に並べて売っていたらしい。祖母はホテルレイクビュー水戸で長年働いていたが、生活はあまり潤っていなかったようだ。わたしが子供の頃は、祖父母は今の梅香トンネルが通っている、京成百貨店裏の竹林に囲まれた小さな借家に住んでいた。

 

母が結婚する時、父方の祖父母が挨拶のためにその家を訪れた時、「貧しい家の人」という印象を父方の祖母は強く受けたらしいことを父から聞いた(父方は祖父が経営者で祖母は元教員だったので生活水準はまるで違ったはず)。それが父方の祖母にとって、わたしの母を財産狙いだと思い込む大きな要因になり、母のことを最後まで盗人扱いして死んでいった。

 

 

一昨年、母方の祖母が亡くなった時、葬式のために帰省すると、わたしは祖母がデパートの袋いっぱいに遺してくれた写真の束を整理していた。これまで見たことのない祖父の若かりし頃の写真や、母や伯父の幼少期のものまで宝物のような写真がたくさん出てきた。 

若かりし頃の祖父と生前使っていたカメラのレンズ

若い頃の祖母や幼い母・伯父の写真

そこに、一際古い写真が入っていた。頬かぶりをした険しい顔をした女性と、小さな子供が写っている。母にここに写っているのは誰なのかと写真を見せると、祖父の母親だと分かった。曾祖母はとても厳しい人だったらしく、傷痍軍人には本来恩給が支払われるが、曾祖母はそれを断るように言ったのだという。

 

貧しいから不幸せだとは限らないし(祖父母ののんびりとした雰囲気がわたしは好きだった)、祖父母が幸せだったかどうかは本人たちが決めることではあるけれど、もしも祖父が戦争に行って左手を失っていなかったら?曾祖母がお国のためにと恩給を断るようにいわなかったら?、もっと祖父と祖母の生活は穏やかで平和だったのかなと考えてしまう。もっと生活に余裕があったのなら、母が姑に長年嫌がらせをされることもなかったかもしれない。戦争は後世に渡ってネガティブな余韻を遺す。

 

この数年で戦争の足音がどんどん大きくなっているような気がする。当時と大きな違うことは、自分たちで情報が集められること、声を上げる自由があることだと思う。誰も幸せにならない戦争は二度と起こすべきではない。声を上げることが無駄だとわたしは思いたくない。