読み書きの自分史

昨年、祖母が亡くなったこと以外にもショッキングな出来事が重なり、しばらく文章を書くことはおろか、本を読むこともできないでいた。一応、手に取ってはみるが、活字を追っていると苦しくなってすぐに本を閉じる……この繰り返しが続いた。

思い切って本という存在からは離れ、手持ち無沙汰になる瞬間はひたすら客に料理を提供するゲームで頭を使わないようにしていた。昨年末から新しくクリニックに通い始め、カウンセリングを受け出すと、それが効いてきたのか、本屋にも自然と足が向くようになった。料理のゲームは、いつの間にかログインボーナスすら貰わなくなった。

そして、久しぶりに本屋で手に取った本は、「本とは」とか「読書とは」というような、読み書きの原点に遡るような内容のものが目立った。*1

 

わたしは今どうして本を手に取ることができ、それを個人として所有できるのか。なぜそこに書いてある情報を受け取ることができるのか。そして、書くということはどういうことなのか。今までふわっと考えが浮かぶことはあってもいつの間にか忘れてしまい、書き留めることがなかったので、これを機に幼少期から大学生くらいまでの読み書きの自分史をまとめてみることにした。

 

読むことの自分史

子供の頃、当時住んでいた家(〜小学二年生まで)の、固定電話が置いてあった棚がわたしと姉の本棚になっており、正方形の名作絵本シリーズが並んでいた。母にはミニマリスト気質があり、それは当時から続いていたのか、家にあった子供向けの本は確か最低限で、代わりに母はよくわたしを図書館へ連れて行ってくれた。母の父(祖父)は書店を営んでいたので、母にとっても本のあるところは落ち着く場所だったのかもしれない。

 

特に好きだったのは『こまったさん・わかったさん』シリーズと魔法使いの女の子の本で、これは同世代の子はたいてい好きだったように思う。あと、『トラベリング・パンツ』も大好きだった。魔法強し。それらのシリーズを読み終えたあとは、グリム童話を貪るように読んだ。冊数が多かったので、終わりなくたくさん読めるのが嬉しかった上、絵本と違ってグロテスクな描写や刺激的な展開が多く、子供ながらにゾクゾクかつワクワクしながら読んだのを覚えている。

 

そして、この頃に読んだ本の中で『ヒッコリーの木の実』という絵本には特に愛着があり、大人になった今でも大事にとってある。

主人公はリスの母子で、ヒッコリーという名の木の実をたくさん拾い、厳しい冬を乗り越えるために色んな場所に埋めていく。冬になり木の実が取れなくなると、少しずつ掘り起こしていくのだが、そのうちのいくつかは忘れてしまう。しかし、それは春になると芽を出して、やがて大きな木になるというものだった。

 

これは母が何かの機会にわたしに贈ってくれたもので、今考えると母からのメッセージも含まれていたのではないかなと思う。自然の摂理を学ぶという意味だけではなく、成長していく過程で色んな経験をするが、あれは無駄だったなと思ったことが忘れた頃に案外大きな芽を出す……ということに通じている気がする。

 

中学校に上がると、小学校の時と打って変わって、全くと言っていいほど本を読まなかった。中学生が集まる場所といえばゲームセンターかTSUTAYAぐらいで、同級生にどこで見られているか分からない状態でゆっくり本を選ぶのが恥ずかしかったからかもしれない。お金を出して買うのはたいていアイドル雑誌かファッション雑誌だった。中三の時、仲の良い友人が『ノルウェーの森』を読んでいたときは、内心(大人っぽくて格好いいなあ)と、憧れの気持ちを持っていたこともある。

 

高校に入ると、昼休みの教室の空気感が苦痛になり、教室から逃げるための手段として図書室に入り浸るようになる。わたしの高校は、受験期を除けばほとんど図書室に生徒がいなかったので、たいていはその空間に司書さんとわたしだけで、贅沢な時間を過ごしていた。お店のように話しかけられる心配もないので、安心して色んな棚を覗くことができた。この頃になると、お気に入りの作家が出てきて、蔵書があるものを全部読み切るのが楽しみになり、タイトルと装丁だけで本を選んでみて、内容を予想するという遊びも覚えた。近所には綺麗な図書館があったので、週末にはそこにもよく通っていた。

 

大学生になって東京に出てくると、神保町という街の虜になった。街自体が大きな本屋のようで、どこからか本の香りが漂ってくるようだった。その頃は、文房堂で手に入れた豆本のイヤリングを好んでいつも身に付けていた。大人になってから各地の様々な街に足を運んだ今でも、神保町は一番好きな街のひとつで、東京に行けば特別な用がなくても気付いたら歩いている。

2013年頃の神保町

書くことの自分史

家族に見つからないことを祈って初めて公表するが、わたしの父親は国語科の教員で、作文については人一倍うるさい人間だった。こうしてわたしがこそこそブログを書いているのは、父からの影響が皮肉ながら大きいのだと思う。

 

小学校の宿題である夏の絵日記なんかにも添削が入るので、それはそれは鬱陶しかった。作文の類のものは、担任に直される上に、父親からの赤が入るので、他の同級生と比べると倍の量書き直しをしていたと思う。

そのおかげか、小学四年生の頃には担任に「全校集会で読むための作文を書いて欲しい」と頼まれた。当時はかなりの緊張しいだったので、人前で読むということに関してはボロボロだったように思うが、文章としてはそれなりに完成度の高いものを書いていたはずである。

 

読書感想文は、当時「そもそも読書感想文にはどういうものを書いたら良いのか」という方針自体を理解しておらず、ただただ苦痛な課題だった。興味のない本を無理やり読まされるのも嫌だったし、毎年のようにあらすじのようなものをだらだら書くだけでやり過ごしていた。

 

そして、小学校六年生の時、初めて小説のようなものを書いた。誰もいないはずの暗い音楽室からピアノの音が聞こえてくるという怪談話だ。蓋を開けてみたらそれはお化けの仕業などではなく、調律師がピアノを直しにきていたという結末だった(これはほぼ実体験なのである意味エッセイ的な要素が強い)。それなりに文章を書くことに自信があったわたしだが、その時は先生からはあまり良い評価を貰えなかったので、しっかりへこんだ。どのあたりが良くなかったのかは今でも疑問だし、正直今だにちょっとだけ根に持っている。

 

そのあと、本格的に作品として意識して者を書くようになったのは高校生の頃で、当時は自分のホームページを作る文化が流行っていた。前略プロフィールと呼ばれるページにリンクを貼ることができ、仲良しの友達や部活のHPを貼ったり、リアルタイムといってその時々の心情を短い文章で投稿するもの(今でいうTwitterのような存在)を貼るのが主流だった。それに加えて、わたしは自分で書いた詩を公開するためのページを作っていた。今思い出すとゾッとするけれど、この作品がよかったですなどとコメントをくれた人がいて、嬉しかった感覚を今でも覚えている。

 

高三くらいからはブログに手を出し、日記のような、改行がやたら多い取り留めのない文章を書き始めた。浪人生だった頃は、予備校にまともに友達がいなかったせいで孤独な時代を過ごしており、ブログだけが東京に行ってしまった友人たちへ自分の現状を伝えるツールだった。わたしはここで生きているよ!忘れないで!ということを遠回しに必死で伝えていた気がする(この頃は痔がひどくて本当に色々しんどかった)。

 

論理立った文章を意識して書くようになったのはこの予備校時代で、小論文の授業には必要以上に腰を入れて臨んでいた。結局、受験もボロボロだったし、試験にもまともに活きたような気はしないが、論理的な文章を書くという勉強ができたことはよかったと今では思っている。その時に書いた課題で、講師に「減点するところがない」と言って生徒全員の前で読み上げられた時は本当に気持ちが良かった。いつかその講師にこんなものを書いたと胸を張って会いに行ける日が来るといいなと思う。

 

大学生になると、書いたものが授業で例として挙げられ、褒められるという経験が続いた。英語の必修の授業(スパルタ講師で有名で、必修にもかかわらず終盤になると1/3が辞めた)では、毎週お題が決められ、それにそったエッセイを英語で書いてくるという課題が出されていたが、ある日、「Cute」というお題が出された。他の生徒たちが可愛いものの話を書いてきた中、わたしは「Cuteとは形容詞の一つで、発言する人間と対象が変われば使用する意図が変わってくる。そして、わたしは同性にCuteと言われることがあまり好きではない」という内容の話を書いた。そのスパルタ講師は滅多に人を褒めることがなかったが、「君はクレバーだね」とわたしに言ってくれた。それは当時のわたしにとって最大の誉め言葉で、大学時代の中でも一番と言っていいほど最高な瞬間だった。同時にわたしが「賢いと思われること」に飢えているのだと認識する出来事でもあった。

 

文章を書く理由

こうして時系列に沿ってまとめて見ると、今自分が当たり前のように文字や文章を読んで、物を書き、人に公開する手段があるということはとても幸せなことだと思える。それと同時に、紙というものを媒体とする必要がなくなっていくことが惜しくてたまらないし、大好きな本屋の香りもいつかは無くなってしまうのかもしれないと思うと切なくなる。

 

結局のところ、これらの経験が自分の人生にどれほど役に立っているかと言われると、労力を結構かけている割りには、ブログにくらいしか活かせていない(こちらのエッセイは丹精を込めて書いたので、是非読んで欲しいと思う→ たとえお金がなくても。豊かな心を育んでくれた街「水戸」 - SUUMOタウン)。では何故、大きな得になっていないのに書き続けているのかと考えてみたが、わたしはいつか無くなってしまうかもしれない景色を、誰かの目に浮かぶように文字に残しておきたいのだと思う。

 

自分の埋めてきた種たちがいつか芽を出して大きな木になる日が来ると信じて、今日も種を土の中に埋め、それを忘れたことにしようと思う。

*1:『本の世界を巡る冒険』『読書の価値』