祭壇には一杯の焼酎を

永い夏が始まる頃、祖母が急に死んだ。百二十歳くらいまで平気でしぶとく生き延び、日本最高齢などを更新してもおかしくなさそうな父方の祖母があっけなく逝ってしまった。初め、午前中に祖母が倒れて病院に運ばれたと連絡が入ってから、昼過ぎには訃報の連絡が入っていた。ただ、連絡を貰ってからも不思議と悲しくはなく、涙がこぼれることもなく、「ああ、そうか。ばあちゃん死んだんだ」というあっさりした気持ちだった。

 

死因は心不全で、週に三度ほど利用していたというデイサービスのスタッフが家を訪ねた時に倒れているところを発見されたそうだ。玄関の鍵が開けっ放しだったことから、事件性がないか警察が現場検証をしたが、何も盗まれたような形跡はなかった。どうやら、朝刊を取りに行った後、仏様用のお茶を淹れるために急須に茶葉を入れた段階でぽっくり逝ったらしい。お湯の入っていない急須が残されていたのだと、電話越しに父親が興奮気味に話していた。

 

たまたまその週末、夫と横浜に遊びに行くために予定を三日間開けていた。別行動の日には東京で友人と飲む約束をしていたし、泊まるホテルはおろかシメのラーメンをどこで食べるかまで決めていた。それなのに、旅程がまるっと葬儀の日程と被ってしまったため、友人には断りの連絡を入れ、ホテルはキャンセルした。行き先は突如、港街から山の中の田舎町へと方角を変えてしまった。

 

祖父母の家のある町は電車で行くにはあまりにもアクセスの悪い場所で、何か特別な機会がなければ目的地になるような場所ではなかった。祖父が亡くなってからはもう十年くらいが経ち、祖母も亡くなってしまった今、次に訪れるきっかけは思い当たらない。この機会に行っておかなればいけないという思いに駆られた。

 

その田舎は故郷の次に思い入れの強い場所だった。山奥にある祖父母の家には、毎年ゴールデンウィークと年末年始になると必ず訪れていた。父には兄弟姉妹が三人いて、親戚一同が集うとその場は大宴会になり、賑やかで楽しくて、その雰囲気が大好きだった。わたしは孫の中で下から数えた方が早く、いとこは上にたくさん居たが、中高生になると途端に顔を出さなくなっていった。特に、祖父がそれを悲しんでいるように見えたので、わたしは高校生になってからも、大嫌いな父親と二人きりで車に乗ってまで通い続けた。最後には、ゴールデンウィークに遊びに行く孫はわたしくらいになった。祖父母の家の二階のベランダで祖父と祖母と三人で眺めた祭りの花火を今でも忘れていない。目立った何かがあるわけではないが、水と空気が綺麗で、川のせせらぎと鳥のさえずりで目覚めるという贅沢のある場所だ。

 

祖母は一言でいうと豪快で過激な人だった。朝、居間で親戚が揃って朝ごはんを食べているかたわらで、大きなずっしりとしたボトルからグラスにととくとくと焼酎を注いで飲んでいた。いつもお猿さんのように赤ら顔をしていたのはそのせいだと思う。畑にいるときに鉢に刺され、倒れている間することがないから焼酎を飲んで過ごしていたという逸話もある。若い頃は女学校の先生をしていたり、調理師の免許を持っていて料理がとにかく上手だったり、てきぱきと物事をこなす人間だった。

 

これだけだと活発で面白い人として片付けられそうだが、一方で祖母は曲者でもあった。父からは、祖母が昔性格が悪いことで有名で、なかなか嫁ぎ先が見つからなかったというような話も聞いていたし、祖母はわたしの母親がとにかく嫌いでずっといじめていた。自分が大事にしているものを失くしたときには母が盗んだものと思い込んだり、わざと皆がいる前で母に嫌味を言ったりしていた。わたしが社会人になってからはその嫁いびりはよりあからさまになっていき、おばたちには「これからはあんたたちがお母さんの代わりに手伝いにくるんだよ」とわたしと姉に向かって言うほどだった。

 

しかし、祖母が死ぬまでの間に、姉はほぼ駆け落ち状態で父の気に入らない相手と結婚してしまって、父からは葬式への出席拒否を言い渡されていた。母は実家で実の母の介護をつきっきりでしているので、どのみち参加することは出来なかったし、来れたとしても来なくていいよと母には言った。それがわたしが行かなくてはならないと責任を感じる理由でもあった。

 

父からのミッション

夫と交代して運転し、夜に祖父母の家へ着くと、父親とおば二人が揃っていた。祖父が死んだ時も葬式に来なかった父の兄は、今回も最後まで姿を見せなかった。父がわたしと夫を呼び出すと、「お前たちにミッションがある」と無駄に映画チックに言い渡した。何かと思ったら、祖母の銀行口座の印鑑を探し出して欲しいと言う。わたしたちが来るまでの間、三人で部屋中を探したが、見つかったのは印鑑を失くしたという祖母のメモだけで、どこにも見当たらないという。居間のテーブルには、印影の違う様々な印鑑が綺麗に並べられていた。見当たらないだけならまだしも、祖母は生前のうちにわたしの母に印鑑を盗まれたという手紙を送りつけたまま死んでいったらしい。

 

夜も遅いので明日でいいよ、わたしたちはもう寝ますから、と父やおばたちが寝支度を始める中、夫は「時間は限られているから今から少しでもやろう」と棚をごそごそとし始めた。おば達が「もうそこは見たよ」と言っていた棚の引き出しからはマイナンバーの通知カードなどの大事な書類がゴロゴロと出てきた。椅子の影になっていた扉を開けると、古いアルバムが並んでおり、その上に外からは一見わからない小さな棚があった。夫が手を伸ばすと袱紗のようなポーチが出てきて、中には印鑑ケースにいかにも大事そうに収められた印鑑も入っていた。

 

喜ぶのはまだ早いと朱肉を付けて捺印してみると、通帳にある印影に一番近い。顔を洗っていたおばや父を呼び寄せると、おやおやとそれぞれ期待の表情で居間へと集まってきた。見つけた印鑑の印影を見ると、父は「おお!これだ」と興奮して大きな声を出した。父が寝酒に飲もうとしていたというちょっと良いウイスキーを居間へ持ってくると、祝い酒としてわたしと夫と父の三人で残りを飲み干した。

 

翌日、父とおばが朝一で銀行へ向かうと、めでたく通帳の印鑑だということが証明された。祖母がわたしの母へと着せた濡れ衣は、わたしの夫の手によって晴らされることになった。これもきっと何かの因果なのだろう。

 

祭壇には一杯の焼酎を

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告別式の日は朝から雨が降っていて、外気はじっとりと湿っていた。車を一時間ほど走らせて街の斎場へと向かうと、こじんまりとした和室の会場には親戚たちが集まっている。

久しぶりに会ういとこやその家族に挨拶をしていると、納棺師がやってきて、賑やかな部屋の中はしんと静まり、納棺式が始められた。

 

納棺師に言われるまま、一人ずつ祖母に死装束を着せていった。それが終わると、末期の水と呼ばれる、旅立ちの前に故人の口に水を含ませる儀式のため、納棺師が大きな白い椀を運んできた。本来は水で行うというこの儀式だが、椀の中には水の代わりに祖母が生前好きだった焼酎が入っていた。

 

自分の番になってようやく、亡くなった祖母の顔をじっくりと見ることができた。肌艶が良く、口元は赤く、死人にしては生命力に満ち溢れていた。大きな綿棒のような枝付きの綿に焼酎をたっぷりと染み込ませると、口元を拭う。あまりにもたぷたぷに含んだので、祖母の口角からは焼酎が滴り落ちるほどだった。

元いた場所に戻ると、隣に居たおばが「空きっ腹だからきっと効いてると思うよ」と冗談まじりに言ったのと同時にわーっと泣き出したので、それにつられてわたしも一緒にオエオエと泣いてしまった。

 

納棺式が終わり、その場が一度解散されたとき、人のはけた会場でゆっくりと祖母の祭壇を眺めた。ピンクのマーガレットを貴重に彩られた祭壇の真ん中にはガハハと口を開けて笑う祖母の写真が飾られ、その隣の小さなテーブルの上には宝焼酎カップ酒がちょこんと飾られていた。それがあまりにも祖母らしくて可笑しく、葬式だというのにマスクの中でふっと笑ってしまった。泣いたり笑ったり忙しい。

 

再び和室に呼び集められて告別式が始まると、お坊さんがお経を唱えている間もいとこの子供たちがちょろちょろと歩き回っていて、時折笑い声の起こる賑やかで明るい雰囲気のお葬式だった。この一族がこれからも繁栄していくことを暗示しているようだった。

 

喪主の挨拶としてわたしの父親が話し始めると、途中で急に言葉に詰まってしまった。どうやら涙を堪えているようだった。パブリックな場面では体裁を気にする父親でも、自分の母の葬儀では涙で離せなくなったりするんだ……とこれまで見たことのない父の意外な一面を見た。

 

最後に、棺に眠る祖母の周りを花で埋め尽くしたあと、納棺師はこれが遺体と対面できる最後の機会だから是非肌に触れてあげてくださいと言った。大人になってからは一度も触れていない祖母の肌に触れると、おでこは艶々でみずみずしく、生きている人間と大きく違うのはひんやり冷え切っていることだった。先に祖母の肌に触れた祖母の末の妹さんが、わたしの後ろの方で小さく「冷たい」と言った言葉がどんな言葉よりも死を物語っていて悲しくて、耳から離れなかった。ああ、祖母は本当に死んでしまったのだな、と身体でようやくそれを理解した気がした。

 

自分の面白さを作り出しているものは、きっと祖母に貰ったものが多いと思う。それは長所だと呼べるときもあるが、短所だと思える時の方が多い。この血を全部抜ききってしまいたいと思うことさえある。長い間母をいじめて苦しめていたという事実がある限り、面白くて多彩な祖母のことを、単純に大好きだったとは言い難い。

 

それでも、祖母から受け継いだ色んな欠片を大事にしながら、時に苦しみながらもわたしはしぶとく生き抜いていくのだと思う。