煙草にまつわるエトセトラ

ある日、国道を走っていた時、信号が赤になり、隣にシルバーのワゴンRが止まった。少し斜め前に止まったその車の運転席からは煙が出ているのが見え、体を傾けて様子を伺うと老齢の男性がパイプをふかしているのが見えた。わたしはそのアンバランスさをとてつもなく粋だなあと思った。

 

 

憧れ。人はどういう時に憧れを感じるのだろう。

きっと自分では半永久的に手に届かないと悟った時、感じる感情なのだと思う。

 

 

煙草をものすごく吸いたい衝動に駆られることがある。今でこそ禁煙しているが、姉は一緒に住んでいた大学生の時から長い間煙草を吸っていたし、親しい友人のうちの何人かは煙草と親友だ。生き様がかっこよくて、わたしの憧れであった大叔母も喫煙者のひとりだった。デパートへ連れて行って貰い、その階段の前にあるベンチで足を組みながら一服する姿が様になっていた。

 

わたしは、友人に煙草をぷかぷか吸っていそうなイメージがあると言われるが、これまでにたったの一本も口に含んだことがない(シーシャはあるけどね)。なぜかと言うと、単純にビビりだからだ。肺がいかれるのもそうだし、ニコチン依存になるのも、あと結構お金がかかることもみんな怖い。一箱がチューハイくらいの値段だったら、もしかすると手を出しているかもしれない。吸っていそうで吸っていないというギャップもまた良いような気もするので、これからも吸うつもりはない。

 

わたしにとって煙草は、永遠に吸う日がこないからこそ、憧れのような対象であると言ってもいい。

 

煙草の絆

先週、Amazonプライムで『SWANSONG』という映画を観た。なぜそれを選んだかというと、「あなたの好きそうな作品」にピックアップされていたことと、白鳥はわたしにとって原風景の象徴のような特別な鳥だからだ。

 

『SWANSONG』は、ヘアメイクドレッサーとして一世を風靡した主人公が、過去に縁を切った元親友の死化粧を依頼されるところから物語が始まる。主人公は元々街の誰もが知る存在であったが、現在は老人ホームでひっそりと暮らしている。

 

彼はゲイで、同性のパートナーを若い頃にエイズで失っている。当時の一大顧客であった元親友のリタはパートナーであるデビットの死因がエイズだったことに衝撃を受け、彼の葬式に参加しなかった。そのことが主人公のパットとリタの間に大きな歪みを生み、縁を切ることになった。

 

劇中、パットが最愛のデビットのお墓を訪れるシーンがある。墓に向かう途中、パットは周りの客に馬鹿にされながらも時代遅れの銘柄の煙草を何カートンも買う。墓地に辿り着くと、パットは二本の煙草に火をつけ、一本を墓石の上に置く。そのシーンがあまりにも美しくて切なかった。アップになった煙草の灰がふっと落ちるシーンは、映画館で観なかったことを後悔させた。

 

わたしは煙草を吸わないが、もし喫煙者であったなら、こんなふうに煙草で誰かと深く繋がることができたのだろうか。

 

 

その他にも、煙草を吸うシーンが大好きな作品がある『anone』というドラマだ。今は使われていない薄暗い印刷所で、亜乃音と青羽がふたりで煙草を吸うシーンがある。ふたりは元々は赤の他人同士だったが、紙幣を偽造するという罪で繋がっている。天窓から差し込む光に照らされる煙が美しく、その煙にも何か絆のようなのようなものを感じてしまう。

 

このシーンに重なる出来事がわたしの人生にもあった。昨年、父方の祖母が亡くなった際、孫連中の中でわたしだけがたまたま予定が空いており、祖父母の住んでいた山奥の家まで行くことになった。叔母二人にピーチクパーチク言われながら、久しぶりに姪っ子として扱われるのも悪い気分ではなかった。

 

父や叔父、わたしの夫を含めて居間でひとしきり飲んだあと、五畳ほどの台所に皿を運び、横開きの扉をぴしゃんと閉めると、女だけの秘密の会合がはじまる。外はもう真っ暗で、台所を照らしているのはシンクを照らす蛍光灯だけだ。

 

わたしが皿洗いをしていると、叔母がふたりともおもむろに煙草を取り出し、コンロの火で慣れた手つきで火をつけて吸い始めた(叔母2は夫に内緒でたまに吸っているのだという)。一日、葬儀の準備やら家の掃除やらでヘトヘトで、身なりも整っているとは言えないのに、何故かわたしにはそれが美しいワンシーンのように思え、忘れられない光景のひとつになった。

 

 

こうしてみると、どうやらわたしは中年を過ぎた大人たちが煙草をふかしている景色が好きらしい。永遠に吸わないと言っておきながら、中年を過ぎたころに突然喫煙者になっていたら少し笑える。

 

※このブログに喫煙を推奨する意図はございません。