祖母からの最後の贈り物

父方の祖母の四十九日の法要が終わり、ああ、そろそろさすがにクリーニングに出した喪服を取りに行かなきゃなあと思っていた日曜日の朝、水戸に住んでいる母方の祖母が亡くなったと母からメールが来た。信じられなくて、嘘だと思いたくて、ベッドの上で子供のようにわんわん泣いた。

 

すぐに電話をかけると、母でさえ祖母に会えていないのだと言う。深夜のニ時くらいまで、母は祖母の面倒を診ていたそうだが、朝になって呼吸が弱くなっていることに気付き慌てて救急車を呼ぶも、病院に運ばれてそのままだったそうだ。母はわたしの性質をよく知っているので、「帰って来ても会えないから、急いで帰って来なくていいからね」とわたしに念を押した。

 

どうして母が会えないのか、わたしが帰っても会えないのかと言えば、祖母がコロナに感染していたからだった。

でも、ニュースで見ていたように、きっと数日後にはビニール越しに会えるのだろう。少なくとも遺体とは対面できるのだから、状況がはっきりするまではじっとしておこう、と思っていた。

でも、残念ながらそうはいかなかった。母からはまたメッセージが来て、そこには「おばあちゃんは夕方にお骨になって帰ってきます」と一言だけ書いてあった。画面に映るその一行が信じられなくて、わたしは現実を受け止めることを拒絶し始めた。

 

 

それまでの出来事を少し整理すると、話はそれから十日ほど前に遡る。母から、姉と三人のグループラインにコロナに感染したと連絡が入った。母のことはもちろん心配だったが、一番気がかりだったのは実家で母がつきっきりで介護している祖母のことだった。残念ながら母の感染が発覚した翌日には祖母の陽性も判明してしまった。ケアマネージャーさんが保健所に掛け合ってくれたようだが、当時は特に感染者数が多い時期で、熱の症状だけでは受け入れてくれる場所はどこにもなかったそうだ。

週に三度ほど訪問してくれていた医療スタッフも家には立ち入れなくなり、病人の母が病人の祖母の面倒をみるしかないという途方もない状況だった。父は初めから祖母の介護には関わっておらず、「自宅で面倒を見るのは結構なことだけで俺は知らないよ」というスタンスで、最後まで我関せずを貫いていた。わたしは少しでも何か出来ることをしなければ、と尿とりパットや介護食、療養中に母が食べられそうなものをパッキングして送ったりしたが、それくらいのことしか出来ないのが虚しかった。

数日で母は回復し、「おばあちゃんも良くなってきているから安心してね」と連絡を貰っていたので、もう大丈夫だとホッとしていた。もうすぐお盆だからその時は絶対に会いに帰ろう、と決意した矢先に祖母はいなくなってしまった。

 

祖母はコロナが流行し始めたと同時期に、胃がんの手術をすることになって入院した。ずっと横になっていたことと面会がしばらく出来なかったことがきっかけで、足は弱り、認知機能も急激に衰えてしまった。それから、祖母が使っていた和室には介護用ベッドやポータブルトイレが導入されて、祖母と母の介護生活が始まった。あれよあれよという間に要介護度は上がっていき、最後に母が介護していた時には要介護度は5になっていて、排泄も人の世話を借りずにはできず、とろみのついた食事か流動食しか食べられない状態だった。

 

わたしが最後に祖母に会えたのは、亡くなる一年半前、パンデミックが始まってからは丸一年が経つ頃だった。

その時もうすでに、わたしのそれまで知っていた祖母の姿はなく、痩せ細り皮と骨になってしまった祖母がベッドに横になっていた。ゆっくりと話すことはできても、半分は夢の中にいるようで、意識が遠くの方に飛んでいく感じだった。祖母は、わたしだと分かると「おばあちゃんね、ポンコツばあさんになっちゃったの」と冗談を言うように笑いながら何度も言った。自分で歩くことも、お風呂に入ることもできず、排泄さえ誰かの手を借りないといけないことは祖母にとって受け入れがたいことだったのだと思う。わたしはそんなことないよ、と笑って返すのがやっとで、祖母を前にして涙をこらえるのに必死だった。これからもまだ何度も祖母に会いたいと思う反面で、正直なところでは早く楽になって欲しいとも思った。

 

わたしは悔やんだ。実家に帰ると厄介な父がいる。そのため、帰省をしても用事を作ってどこかに出かけたり、長居をせずに帰ることがほとんどで、関西に引っ越してからは特別な用事がない限りニ年に一度くらいしか帰っていなかった。祖母に対して、罪悪感すらも感じていた。何故ならば、元気だった頃の祖母にかけられた最後の一言が「もう帰っちゃうの」だったからだ。あの悲しい顔を思い出すと、どうしてもっと帰らなかったんだろう、長居をしなかったのだろうという後悔ばかりが募った。コロナが流行り始めた直後に帰れる機会があったが、その時はどう動くのか正解が分からず、大事を取って帰らなかった。あの時帰っていたらもう一度元気な祖母に会えたかもしれないが、無理にでも帰ればよかったのだろうか。

それからというもの、悲しんでいるわたしを見かねた夫は、何度も「おばあちゃんに会いに行きなよ」と言ってくれたが、会いに行きたい気持ちと、もしかすると自分が死のきっかけを作るかもしれないという気持ちが天秤にかかり、いつも後者が少しだけ傾いて、会う機会はどんどん後ろ倒しになった。

 

祖母の訃報を聞いてから数日が経ち、葬式のために実家に帰ると、祖母が過ごしていた和室には祭壇が設けられ、ようやく会えた祖母はすでに真っ白い骨壷の中にいた。遺影に写る祖母はもうすでにご先祖さまの顔をしていて、もう手の届かない遠いところにいることを痛感させられた。

 

わたしの覚えている祖母は良い意味で適当な人で、雰囲気がまあるく、物腰の柔らかい人だった。好きな時にお風呂に入り、洗濯物を回して、よく縁側の椅子に座ってラジオを聴いていた。ご飯を三食食べるのが面倒な人で、モスバーガーが好きだった。自由で穏やかで、祖母の周りにはいつもゆったりとした時間が流れていた。にっこりと笑うと、尖った八重歯がちらりと覗くのがチャーミングな人だった。

 

そんな祖母の晩年は、きっと寂しくしんどいものだったと思う。祖父が二十年前に亡くなってからは伯父と二人で暮らしていたが、その伯父も突然事故で亡くなってしまった。実の息子を亡くして、長年暮らしていた家を離れ、義理の息子と同居するのは肩身が狭かったと思う。事実として、同居が始まるときに祖母から「毎月いくら納めればいいですか」と言われたことをあとになって父から聞いた。

 

そんな祖母が気がかりで、わたしがまだ関東に住んでいた頃は、定期的に祖母に会いに行った。今の夫との結婚を巡って父と冷戦状態の時は、両親の不在時を狙ってこっそり祖母に会いに行った。玄関のドアを開けると、祖母は「帰ってくる気がしてた」といたずらっぽく笑い、わたしの帰省を喜んでくれた。お昼には駅前でお土産に買ってきたお寿司を一緒に食べ、夕方には、わたしに何か食べさせたいと思った祖母が取ってくれた出前のカルビ弁当を食べた。結局、弁当のゴミが二つ捨てられていたことで、わたしがこっそり帰ったことは母にバレてしまったが、その記憶はいつでもわたしの心を温めてくれる。

 

 

葬儀が行われるまでの間、わたしは祖母が遺した写真を整理することにした。百貨店の名前が印字されたの大きな紙袋の中には、アルバムや写真の詰まった封筒がぎっちりと入っていた。

その中には、祖母が旅館で働いていたときの社員旅行で日本各地を観光している様子や、お酒を飲む祖母の姿も映っていた。いつもはにこっと控えめに笑う祖母が、口をガハハと大きく開けて笑う姿を初めて見た。家族写真も多く残っていて、芝生に座っておにぎりを頬張ったり、母と顔を見合わせるようにして楽しそうに笑う祖母の姿を見つけたときは、わたしが思っていたよりもずっと祖母は幸せだったのだなあと思い心の荷が軽くなったのを感じた。

 

紙袋の中には祖母以外にも、もうこの世には居ない、祖父や大叔母、伯父、わたしが産まれてから色んな節目を見守ってくれ、目尻に皺を寄せてうんうんと話を聞いてくれた人たちの写真がたくさん残っていた。母や伯父の子供の頃の写真や、写真を撮っている祖父の姿、曽祖父や曽祖母の姿もあった。ほこりっぽくて全然整理のされていない写真の束は、祖母が最後にわたしに遺してくれた最後で最高の贈り物だと思った。それらの写真から、自分の手元に置いておきたいとっておきの写真をランダムに抜き取ると、一つのアルバムにまとめた。

葬式の朝、わたしがベッドでごろごろしていると、母が洗濯物のカゴを抱えて入って来て、洗濯物を干しながら「おばあちゃんは幸せだったのかなあ」とぼそっと呟いた。

祖父は戦争で片手を失っていて、いわゆる傷痍軍人だったが、祖父の母は厳しい人で恩給を断るように言ったそうだ。確かに、写真で見る曽祖母はどの写真も険しい顔をしていた。祖母はもともとお嬢様だったようだが、祖父と結婚してからはお金の面でかなり苦労していたらしい。でも、写真の中に見つけた祖母の姿はとても生き生きとしていて、貧しさよりも豊かさが伝わってきた。母に「おばあちゃん、結構色んなとこに出かけたり、お酒も飲んだり、結構楽しそうにしてたみたいよ」と整理した写真を渡すと、母は意外そうな感じでそれらを見つめ、少し安心した表情になったような気がした。

 

祖母の葬式は、祖母の故郷近くの海のそばにある街中の小さなセレモニーホールで、親戚のみでこぢんまりと執り行われた。姉は父方の祖母の葬式と同じく参列せず(できず)、孫世代はわたしだけで、この前父方の祖母の法要で会ったばかりのおばたちにこんな形ですぐに再会するのは切なかった。遺体のない葬式はどこか物足りなく、涙を流すタイミングもないままあっけなく終わってしまった。祭壇が胡蝶蘭や菊で盛大に彩られていたのが、わたしにとってはせめてもの救いだった。

 

葬式が終わってから実家を出るまでの間、わたしはたくさんの花に囲まれた祖母のそばに大の字に寝っ転がり、線香の香りを嗅いで何もせずにゴロゴロして過ごした。頻繁に会いに帰れなかった分、祖母の座るそばで昼寝をしていたときのような、温かくて安心した気持ちをもう一度感じたかった。

 

葬儀を終えて関西に帰ってからも、わたしは祖母がいなくなったという現実をなかなか受け止められずにいた。三十路を過ぎ、祖母が亡くなることは自然の摂理として当然なことなのに、どうしてこんなにも胸が詰まるほどに苦しいのだろうとずっと考えていた。

祖母はわたしにとって、最後の砦だったのだと思う。この世から消えてなくなりたいという衝動に駆られた時、祖母の顔がいつも最初に思い浮かび、歯止めをかけてくれていた。祖母のいなくなった世界は、肌寒い夜に薄いタオルケットを一枚で眠っているときのように心細かった。

 

数ヶ月前にもう一人の祖母を見送ったことでより実感したことは、葬式とは人の死を頭と心で理解するために必要な手順なのだということだった。訃報が入ってから、喪服を身にまとい、遺体と対面して納棺を見守る。焼香の香りを嗅ぎながら読経を聞き、木魚のリズムに合わせて故人を見送る心構えを整えていく。その手順をひとつすっ飛ばしてしまった分、気持ちの消化も心の整理も出来ずにしばらくの間過ごしていた。

 

祖母が亡くなってから季節がひとつ巡り、ようやくこうして気持ちを文章に起こすことができたが、わたしはこの話をパソコンの画面の前でボロボロとひどい顔で涙をこぼしながら書いていた。上手く順序立てて書けているか不安だし、適当な見出しでさえつけられない。

 

この文章を読んだ人に勘違いして欲しくないのは、わたしは不幸自慢がしたいだとか同情して欲しいとかそういうことではない。きっと、タイトルを『祖母がコロナで死んだ話』とかにすれば閲覧数は上がるかもしれないが、バズりたいからこれを書いているわけでもない。ただ自分の身近に起きた事実と、時間とともに薄れてしまうであろうこの気持ちを残しておきたかった。

 

ただここにあるのは、大好きなおばあちゃんがこの世にはもういないという事実と、わたしはこの事実を受け止めて自分の人生を生きていかなければならないということだ。祖母がこの世にもう居なくとも、祖母の遺してくれたアルバムがそばにあれば、きっとわたしはこれからも色んなことを乗り越えていけると思う。