知恵の輪

コロナが少し落ち着いて、やっと遠出ができるかと期待していたら、思いがけず家族!家族!家族!な一年になってしまった。

色んな場所に足を運んだが、結局どれも弔事に関するものばかりで、葬式に向かう途中に寄ったSAの記憶とか、実家へ向かう新幹線からの景色ばかりで、友人にもまともに会えずに東京駅で買ったジャージャー麺をホテルで頬張っていた記憶しかない。

改めて、嫌というほどに「家族」の面倒くささを思い知らされた一年だった。もうお腹いっぱい。はち切れそうである。ジャージャー麺も家族も腹八分がちょうどいい。

 

街行く人々に、「あなたにとって家族とは?」と唐突に尋ねてみたい。どんな答えが多く返ってくるのだろうか。愛?ホーム?それとも暖かい毛布?

 

わたしにとって家族とは鉄の鎖みたいなものだと思う。重くて、冷たくて、人の自由を奪うような。

わたしの家族はとっくに破綻していて、実の家族が最後に揃ったのは、叔母の旦那さんが亡くなった時で、それすらもう何年前か定かではない。葬式の数時間前に、回転寿司で食事をとったのが四人家族での今のところ最後の食事になった。次、家族全員が揃うのは、きっとこのうちの誰かの葬式なのかもしれないな、とぼんやり考えたりする。

 

まともに家族旅行に行った記憶は小学生で止まっているし、そもそも家族が全員揃うということが皆無になった。とどめを刺したのは二人のばあちゃんが死んだことで、姉は結局どちらの葬式にも招待されなかった。姉の話をすることは、もはや我が家の中だけでなく、我が一族の中でもタブーになった。

KevによるPixabayからの画像

わたしの家系からはちょいちょい人が離脱していて、父親の兄がそうなのだけれど、祖母のお悔やみを新聞に掲載してもらう時、父は続柄を「次男」として掲載することをしばらく悩んでいた(最終的には公表した)。結局、「外からどう見えるか」が、いつ何時も父にとっては優先事項なのだと思う。

 

父と夫とわたしの三人でお墓を掃除しに行ったとき、父は墓石に刻まれたご先祖さまの話を始めた。この家を守るために、養子として迎えられた人がいることを知った。そうしてここまで、この家は続いてきたのだと父は話した。きっと当時の時代はそれが当たり前だったのだろう。でも今は違う。

 

もう長いこと会っていない父の兄には、息子と娘(わたしにとっては従兄と従姉になる)がいて、本来であればきっとその息子がこの家を継ぐ役割に自動的になっていたのだと思うが、完全に縁が切れてしまった今、わたしの父の後を誰が継ぐかというのが一族の大きな問題になっている。

 

父親はもともと、わたしの姉に自分の理想に見合った結婚相手を見つけてきて、自分の後を継がせる気満々だった。そのため、姉には当時長年の彼氏がいて、紹介もしているというのに、両親は姉の名前で勝手に結婚相談所に登録した。それが問題のある業者で、クーリング・オフしたことを母が姉に報告することで自体が明るみになったが、姉と私にとっては恐怖や怒りを感じる出来事でもあった。

『箱入り息子の恋』という映画の中で同じような描写があった時、テアトル新宿で「まじか」と笑っていた立場だったのに、数年後、自分の身の回りで同じ出来事が起こるなんて思わなかった。全然笑えないけど。

 

父はその後、姉に「その男と結婚するのは自由だけど、それなら誰の葬式にも呼ばない」と半ば脅しのような手紙を送った。姉は元々平和的な解決を望んでいたが、その手紙を読んだことで、もう父とまともにやり合うのは無理だと諦め、当時の交際相手とようやく結婚する運びになった。でもこれは、姉が悪いわけではない。あまりにも父の理想とかけ離れていた相手だったために見放された、ただそれだけのことだと思う。

 

父は今更になって養子を取ることを考えたり、わたしの夫を継がせようと企んでいるらしい。わたしたち家族はとっくに“終わっている”というのに、一体何を守ろうと言うのだろう。

 

わたしの下には三兄妹のいとこがいるが、母は「三人いるんだから一人ぐらい継いでくれてもいいのにね」と言った。父も父だが、母も母だ。わたしにはそれがまるで生贄のようにしか聞こえなかった。本人の意思に関係なく、家を存続するためにあてがわれる存在?生贄を神様に差し出したところで、雨雲が無くならない限り雨は止まないというのに。

 

親族が集まる場に行くと、父も叔母も、わたしと夫が後を継ぐことを期待していることが伝わってくる。きっとそれが一番まるく収まる方法なのだろう。でも仮に、わたしの夫が父の後を継ぐとして、またその後を継ぐ人間が必要になる。そのためか、叔母は何の躊躇もなく、わたしに何故子供を産まないのかと聞き、子供は早く産んだ方がいいと勧めてくる。

 

親世代の人間たちは何の躊躇もなく、子供を産め産めと言うけれど、物価や光熱費は上がり、薄皮クリームパンが五個から四個になるという時代に、どうして無責任にそんなことが言えるのだろう。

跡継ぎを見つけたところで、自分たちは使命を果たしたと満足するのかもしれないが、その後生贄に差し出された人間の未来を考えたことはないのだろうか?わたしに課された使命は、この一族を守っていくことではなく、きちんと終わらせることなのかもしれないなとすら思う。きっと、こんなことを考えていることが知れたら、父は姉以上にわたしを一族から追放するのだろう。

 

重い鎖は解こうとしても知恵の輪のように解けそうで解けないままで、今もわたしに絡みついている。そして、クリスマスにこんな話を書いているわたしも、それなりに十分終わっている。