さよならおさちゃん

12月の頭、文鳥が死んだ。その日は気持ちのいい冬晴れで、病院への道中にある山々は鮮やかに色付いていた。わたしは手術を終えた文鳥を膝の上に抱えながら外の景色を見て、こんなに綺麗な日に天国に行ってしまうことなんてないだろうと思っていたが、その日のうちに逝ってしまった。

 

わたしは誰かや何かの死に必要以上に敏感すぎる。小学生の時に祖父が亡くなり、身近にあったものの死に触れる経験を初めてしたときからずっとそうだ。この5年間だけでも、近しい人だけでなく夫の友人や飲み仲間、バーのマスターなど何人もの人間が死んだ。ひとつの死に遭遇するだけで、何週間も、時には何ヶ月も気持ちを引きずってしまう。

でも、気持ちを言葉にして外に出さないと、いつまでたってもぐるぐると胃に気持ちの悪いものが残ってしまう。結局文章にすること以外に自分の気持ちを消化する方法を知らない。

 

30gにも満たない小さな命は、わたしにとって漬物石のようにずっしりと重かった。その文鳥はメスで、ピともチュンとも全く鳴かない鳥だった。彼女はまるで産卵がライフワークかのように生涯でたくさんの卵を産み、そのうちのいくつかはめでたく孵化した。いま我が家にいる文鳥たちは、父親を除き、すべて彼女が産んだ子供である。彼女にキャッチコピーを付けるとすれば、「地球が滅亡するのが先か、彼女が滅亡するのが先か」。それほどにパワフルで肝の据わった文鳥だった。

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彼女はおさちゃんと呼ばれていた。ライトシルバー文鳥という珍しい品種だったので、シルバーのカトラリーから着想して「おさじ」と名付けたのだった。

元々は別の家族に飼われていたが、お子さんが文鳥アレルギーになって飼えなくなったという理由で、ペットの掲示板で里親が募集されていた。もともと番で飼われていたおさちゃんを、オスの桜文鳥とともに引き取ることになった。

 

我が家に来てすぐのおさちゃんは高く飛ぶことが出来なかった。冷蔵庫の上に乗せてみても、ずっとその場に立ち尽くすだけで、飛ぶことを怖がっているように見えた。病院に連れて行くと、羽が切られているということがわかる。羽を押さえて貰うと、両翼の大きな羽が半分ほどぶっつりと切られていた。あまりにも痛々しい姿だった。

毎年寒い時期になると、換羽期という羽の生え変わりの季節がくる。我が家に来て三年ほど経った頃だろうか、何度も何度も生え変わることでようやく綺麗に羽が生えそろった。冷蔵庫から降りることもできなかったおさちゃんは、自分からカーテンの上に飛んでいくようになった。鳥は高いところが安心するらしい。気付けばリビングの中を暴走族のようにオラオラと飛び回るようになった。おさちゃんが自由に飛べることはわたしにとっても幸せであった。

 

おさちゃんは食いしん坊だった。魚の匂いを察知すると、食卓にある秋刀魚や鮭の皮を目がけて一目散に飛んでくる。特に、海藻の香りには敏感で、炊きたてご飯で作ったおにぎりに巻いた海苔に弱かった。磯の香りにつられてケージの中で出せ出せー!と激しく自己主張をし、外に出してやるとおにぎりに登り血眼になってラップ越しに海苔を突いた。

 

おさちゃんの羽の色はライトシルバーという名の通り、薄いグレーのような色をしていたが、不思議と時々色の濃淡が変わり、白文鳥に見えるほど白っぽい時があったり、シルバー文鳥のようにグレーが濃くなる時もあった。おさちゃんは背中の匂いをたまに嗅がせてくれたが、彼女の子供たちがメープルシロップや小麦粉のような優しい香りがするのに対して、何故だかおさちゃんだけ梨のような独特な香りがしてちょっと臭かった。

 

おさちゃんはの死因は卵管脱だった。卵がうまく産めず、そのまま卵管が飛び出してしまったのだ。病院で縫合手術をしてもらったが、5時間くらいしかもたなかった。本来ある寿命いっぱいまで生かせてあげられなかったことには飼い主としての責任がある。後悔が1ミリもないかと言われたらそれは嘘になる。ただ、おさちゃんは人生を全うしたのだと思う。何も言葉を発さない子だったが、仕草や表情から芯の強さが感じられる格好いい生き様だった。

 

解像度が低ければ、おさちゃんの死もたった一羽の鳥の死で片付けられるかもしれない。それは警察署の入り口に掲示してある「本日の死者数」にカウントされた数字の1と一緒だ。でもその裏には一羽や一人の人生という歴史が存在している。

 

 

10年前、カンボジアにあるトゥール・スレンという虐殺博物館に行った。そこには、虐殺の犠牲者となった人々のモノクロ写真がずらっとボードに並んでいた。クメールルージュによって撮影されたものだ。

その場所でひとりひとりの顔写真を眺めている時、一人の少女と目が合った。年齢は10歳前後で髪型は肩につかないボブヘアー。少女はレンズの向こうの人間を睨むような鋭い目をしていた。その眼光に触れたとき、わたしはその虐殺の犠牲者たちを数字でしか見ていなかったことに初めて気付いたのだった。きっとその子にも独特の癖があったり、好きな子がいたり、10数年かもしれないが積み重ねてきた人生があったはずだ。その一枚の顔写真は、命と死について改めて考えるきっかけとなった。

 

嫌でも誰もがいずれ死ぬ。そして、その時は本人の予期せぬタイミングで、事件や事故、病気で突然訪れるものだ。人間の力では太刀打ちできない自然災害でも一瞬で大勢の命が失われてしまうというのに、今それが意思のある人間の手によって行われている。遺体との対面も許されず、悲しみに暮れる時間さえ与えられないなんて、あまりに残酷だ。

悲しみに暮れる時間が当たり前のように与えられていることが幸せだと思うのと同時に、それが特別なことでなく、どこに住んでいる誰にとっても当たり前の世界が訪れることをわたしは望んでいる。

 

写真:https://pixabay.com/images/id-6940018/