教師で反面教師な父親のこと

前々回のブログを書いた直後、父親から一行だけのメールが届いた。それを読んで、わたしはとうとう父親と縁を切ることを決意した。

このブログで、ずっと父親の本質と父娘の関係については触れてきていなかったように思う。先の記事でわたしにとってはブログは排泄だと書いたが、本当にわたしが一番外に排出したかったのはこの父親のことだ。でも向き合うのが怖くて書けなかった。長い時間がかったが、ようやく心の準備ができた。

 

金曜日の夜、スーパーで親子三人で買い物している家族を見かけた時、幻を見ているようだった。みんなにこやかでリラックスしていて穏やかだった。わたしたち家族には長いことそんな時間は流れていない。わたしには額に深いシワの刻まれた父の顔や窓を割りそうな怒号ばかりしか浮かばない。

 

毒親という言葉がメジャーになったのはいつ頃だろう。父親から感じる邪悪さは一体何に分類されるのだろうと長年苦しんでいたわたしにとっては心が軽くなる言葉だった。やっとモヤモヤを表す言葉が出来て嬉しかった。まさにわたしの父親は正真正銘の毒親だと胸を張って言える。

 

Youtubeでとある芸人さんが家族に関して「話せばなんとなかなるで済まされる話が多すぎる」という話をしていた。よく言ってくれたと思った。その人はネグレクトのような家庭で育った人だった。話せば理解し合える家族もいれば、そうではない家族もいる。

 

どうしてここまでこれまで身をすり減らしてまで父親と向き合ってきたのかというと、どこかで話せばなんとかなるという一縷の希望をわたしが捨てきれていなかったからだ。でも、もう諦めることにした。

 

父親の裏の顔と表の顔

父親は暴力を振るう人だった。主に精神的な暴力だったが、時には物理的に手を出してくることもあった。わたしがまだ小学校に上がる前の記憶では、姉に手をあげていた。姉の首根っこを掴んでぶんぶんと左右に振り回し、母は「お姉ちゃんが死んじゃうからやめて」と泣きながら叫んだ。今思えば「この人に逆らったら死んでしまうかもしれない」という恐怖を植え付けられた瞬間だったのかもしれない。高校時代には、家の中を追い回された挙句に階段から突き落とされた。当時は俊敏で運動神経もそれなりによかったので無傷で済んだが、もしもあの時、仮に命に支障が出ていたら父の悪事が公にできたのかなとも思う。

 

そんな父は教師だった。高校の国語科の教員。祖母も教師だったので二代目ということになる。父は家から一歩外に出ると、人格者というお面をつけて歩いた。生徒からも買い物に行った先でも「先生!先生!」と呼ばれ、持ち上げられた。まるで自分だけは一段上に立っているかのように勘違いしているような振る舞いだった。家ではわたしたちを嘲笑って、蔑んで、人格を否定して、心をズタボロに引き裂いているというのに、外では聖人のように扱われているのが許せなかった。

 

教育の段階が進んでいくにつれ、精神的な暴力はエスカレートしていった。わたしや姉の考えはことごとく否定され、嘲笑われた。わたしたちがやりたいと言うことを応援してくれることはなかったし、褒めてくれることもなかった。普段は口数の少ない人間だったが、酒を飲むと気が大きくなるのか階段をドンドンと音を立てて登ってきて、「ちょっと来なさい」と号令がかかると説教が始まる。

 

いつも正しいのは父親。俺の言うことを聞けばいい。わたしたちが父の意見に大人しく従っていると父はみるみる機嫌が良くなり、わたしたちを褒めた。成績が悪ければ、居間に正座させられ、父はお酒を飲みながら深夜に延々と説教をした。「お前は本当に鳴かず飛ばずだよな」と口癖のように呆れた顔をしてため息とともに言った。ブラック企業の上司がやっていることとなんら変わりないと思う。

 

高校に入学する時、父はわたしにテニス部に入って欲しがった。父がテニスに関連のある人間だったからだ。興味がなかったわたしは中学時代に入りたかった陸上部に入った。それが気に入らなかったのか、父はわたしに「そんなことに費やす時間があったら勉強しろ」と3年間文句を言い続けた。携帯は二年になっからようやく許可されたが、定期テストで学年で20番以内に入らなければ没収という条件付きだった。高二の時、学力で言えばトップ集団とも言える人たちと張り合っていて、関東の国立大学を志望校にしていたが、父親に馬鹿にされ、心が折れてしまった。父はわたしに自分と同じように教師になることを求めた。進学先は教員免許を取ることを条件に選ぶように指示し、わたしの志望校に赤いサインペンで採点するようにバツを付けた。

 

わたしがわたしである必要なんてないじゃないか。ただ自分の理想の型にはめて育てたいだけじゃないか。自分が着ぐるみで、どこかに脱ぎ捨てて逃げれたらいいのに。誰かが身代わりになってくれたらいいのにと祈って眠ったが、いつ目覚めても自分のままだった。

 

ありがたいことに、学校には友人もいたし教師にも恵まれた。好きに泣ける場所もあったし、話を否定せずに最後まで聞いてくれる大人もいた。図書室では自分の知らない世界があることを本が教えてくれた。わたしを褒めてくれる人や認めてくれる人が外には沢山いて、なんとか乗り切ることができたが、それがなかったらどうしていただろうと想像すると恐ろしくなる。もし何かが欠けていたら、多分自分か父親のことを殺していた。

 

家族を愛で片付けるな

家族というテーマになるとすべて「愛」で片付けようとする人がいる。父親にこんなことを言われたと言ったら、愛しているから言っているんだよ、と返されたことが何度もある。そんな綺麗な言葉でひとまとめにしようとしないでくれと思う。

 

たとえそれが愛だとしても、父はわたしを愛していたのではなく、わたしという鏡に映った自分のことを愛していたのだと思う。

 

自分にこの醜い人間の血が流れていることは自分にとって耐え難いことだった。自分は生まれながらに欠陥品のように感じたし、100%自分を好きになれることはないのだと思うと絶望した。手首をかっぴらいて全ての血を抜き切ってしまいたいと思う日もいまだにある。

 

 

そんな最低な父親とどうしてこれまで縁を切らなかったのかといえば、母や祖母の存在がわたしを支えていたからだった。父親との仲は冷え切っていたが、家族のあたたかさというものを母の実の家族である伯父や祖父母が与えてくれた。父親と縁を切れば、葬式にも呼んでもらえない(実際に勘当された姉は呼ばれなかった)。それだけは何としても避けたかった。

 

そして昨年、祖母が亡くなり、わたしの心の大きな支えを失うとともに、父親と関わりを続ける理由もひとつなくなった。父方の祖母と立て続けに亡くなったことで、二ヶ月おきのペースで父親と顔を合わさなくてはいけないのは憂鬱で苦痛で仕方がなかった。

 

それでもこれは祖母たちや母のためだと思って歯を食いしばって耐えたが、父親といる空気を致死量分摂取してしまった。薬を貰いカウンセリングに通っても、もう無理だった。

 

父方の祖母の一周忌が近づいて来たが、どうしても行く気になれなかったし、関西の自宅から甲信越地方にある山奥の祖母の家までの道のりは、正直一周忌には行かなくてもいい距離だと思って行けない理由を考えた。

 

わたしは父に、「文鳥の調子が悪くて家を空けられないので参加できません」とメールを入れた。実際に、一羽の文鳥の換羽が上手く進んでおらず、毎日薬をあげなければいけなかった。他にも色んな理由は浮かんだが、体調不良だというと「自己管理ができていない」と返ってくるし、忙しいと答えると「何ヶ月も前に日程を伝えていたのになぜ空けられないんだ」と返ってくるのが目に見えていたからだ。

 

既読になってからしばらく音沙汰がなく、数日後にようやく返って来たのがこの一文だった。

 

「多頭崩壊!」

 

この時、やかんが沸騰するように体全体に怒りが湧き上がった。文鳥を多頭飼いしていることを知っている父は、わたしにその管理の出来なさを責めるためにこの一文を送って来たのだった。たった一行の中に、これまでの父親の行動がすべて詰まっていた。それまでは上手く頭の中で記憶を誤魔化すようにしていたが、そのメールでこれまで父親にされて来た嫌なことの数々を思い出した。日も沈み真っ暗な緑地公園で、焚き火をしながらわんわんと泣いた。ああ疲れた。もう嫌だ。できることなら殺してやりたいと思った。

 

父親の名前の文字列を見るのももういやだった。本当はメールごとフォルダから消してしまいたかったが、いざという時のために証拠を失うわけにはいかないので、その場で父親の名前を「クソ親父」に変更し、着信拒否にした。姉と母には、メールのスクリーンショットとともに一連の流れを報告して、母にはもう「あの人には死んでもらってかまいません」と付け加えた。大好きな祖母の一周忌にも行かないし、実家にも帰らないと宣言した。

 

自分に長いこと刺さっていた長い棘がようやく抜けたような気がした。棘が抜けたあと、皮膚から血がでるみたいに、メールが来てしばらくは今までの疲れがどっと出てしんどい日々が続いた。それももうかさぶたになり、治りつつある。こらからはもう少し気楽に生きられるような気がする。