教師で反面教師な父親のこと

前々回のブログを書いた直後、父親から一行だけのメールが届いた。それを読んで、わたしはとうとう父親と縁を切ることを決意した。

このブログで、ずっと父親の本質と父娘の関係については触れてきていなかったように思う。先の記事でわたしにとってはブログは排泄だと書いたが、本当にわたしが一番外に排出したかったのはこの父親のことだ。でも向き合うのが怖くて書けなかった。長い時間がかったが、ようやく心の準備ができた。

 

金曜日の夜、スーパーで親子三人で買い物している家族を見かけた時、幻を見ているようだった。みんなにこやかでリラックスしていて穏やかだった。わたしたち家族には長いことそんな時間は流れていない。わたしには額に深いシワの刻まれた父の顔や窓を割りそうな怒号ばかりしか浮かばない。

 

毒親という言葉がメジャーになったのはいつ頃だろう。父親から感じる邪悪さは一体何に分類されるのだろうと長年苦しんでいたわたしにとっては心が軽くなる言葉だった。やっとモヤモヤを表す言葉が出来て嬉しかった。まさにわたしの父親は正真正銘の毒親だと胸を張って言える。

 

Youtubeでとある芸人さんが家族に関して「話せばなんとなかなるで済まされる話が多すぎる」という話をしていた。よく言ってくれたと思った。その人はネグレクトのような家庭で育った人だった。話せば理解し合える家族もいれば、そうではない家族もいる。

 

どうしてここまでこれまで身をすり減らしてまで父親と向き合ってきたのかというと、どこかで話せばなんとかなるという一縷の希望をわたしが捨てきれていなかったからだ。でも、もう諦めることにした。

 

父親の裏の顔と表の顔

父親は暴力を振るう人だった。主に精神的な暴力だったが、時には物理的に手を出してくることもあった。わたしがまだ小学校に上がる前の記憶では、姉に手をあげていた。姉の首根っこを掴んでぶんぶんと左右に振り回し、母は「お姉ちゃんが死んじゃうからやめて」と泣きながら叫んだ。今思えば「この人に逆らったら死んでしまうかもしれない」という恐怖を植え付けられた瞬間だったのかもしれない。高校時代には、家の中を追い回された挙句に階段から突き落とされた。当時は俊敏で運動神経もそれなりによかったので無傷で済んだが、もしもあの時、仮に命に支障が出ていたら父の悪事が公にできたのかなとも思う。

 

そんな父は教師だった。高校の国語科の教員。祖母も教師だったので二代目ということになる。父は家から一歩外に出ると、人格者というお面をつけて歩いた。生徒からも買い物に行った先でも「先生!先生!」と呼ばれ、持ち上げられた。まるで自分だけは一段上に立っているかのように勘違いしているような振る舞いだった。家ではわたしたちを嘲笑って、蔑んで、人格を否定して、心をズタボロに引き裂いているというのに、外では聖人のように扱われているのが許せなかった。

 

教育の段階が進んでいくにつれ、精神的な暴力はエスカレートしていった。わたしや姉の考えはことごとく否定され、嘲笑われた。わたしたちがやりたいと言うことを応援してくれることはなかったし、褒めてくれることもなかった。普段は口数の少ない人間だったが、酒を飲むと気が大きくなるのか階段をドンドンと音を立てて登ってきて、「ちょっと来なさい」と号令がかかると説教が始まる。

 

いつも正しいのは父親。俺の言うことを聞けばいい。わたしたちが父の意見に大人しく従っていると父はみるみる機嫌が良くなり、わたしたちを褒めた。成績が悪ければ、居間に正座させられ、父はお酒を飲みながら深夜に延々と説教をした。「お前は本当に鳴かず飛ばずだよな」と口癖のように呆れた顔をしてため息とともに言った。ブラック企業の上司がやっていることとなんら変わりないと思う。

 

高校に入学する時、父はわたしにテニス部に入って欲しがった。父がテニスに関連のある人間だったからだ。興味がなかったわたしは中学時代に入りたかった陸上部に入った。それが気に入らなかったのか、父はわたしに「そんなことに費やす時間があったら勉強しろ」と3年間文句を言い続けた。携帯は二年になっからようやく許可されたが、定期テストで学年で20番以内に入らなければ没収という条件付きだった。高二の時、学力で言えばトップ集団とも言える人たちと張り合っていて、関東の国立大学を志望校にしていたが、父親に馬鹿にされ、心が折れてしまった。父はわたしに自分と同じように教師になることを求めた。進学先は教員免許を取ることを条件に選ぶように指示し、わたしの志望校に赤いサインペンで採点するようにバツを付けた。

 

わたしがわたしである必要なんてないじゃないか。ただ自分の理想の型にはめて育てたいだけじゃないか。自分が着ぐるみで、どこかに脱ぎ捨てて逃げれたらいいのに。誰かが身代わりになってくれたらいいのにと祈って眠ったが、いつ目覚めても自分のままだった。

 

ありがたいことに、学校には友人もいたし教師にも恵まれた。好きに泣ける場所もあったし、話を否定せずに最後まで聞いてくれる大人もいた。図書室では自分の知らない世界があることを本が教えてくれた。わたしを褒めてくれる人や認めてくれる人が外には沢山いて、なんとか乗り切ることができたが、それがなかったらどうしていただろうと想像すると恐ろしくなる。もし何かが欠けていたら、多分自分か父親のことを殺していた。

 

家族を愛で片付けるな

家族というテーマになるとすべて「愛」で片付けようとする人がいる。父親にこんなことを言われたと言ったら、愛しているから言っているんだよ、と返されたことが何度もある。そんな綺麗な言葉でひとまとめにしようとしないでくれと思う。

 

たとえそれが愛だとしても、父はわたしを愛していたのではなく、わたしという鏡に映った自分のことを愛していたのだと思う。

 

自分にこの醜い人間の血が流れていることは自分にとって耐え難いことだった。自分は生まれながらに欠陥品のように感じたし、100%自分を好きになれることはないのだと思うと絶望した。手首をかっぴらいて全ての血を抜き切ってしまいたいと思う日もいまだにある。

 

 

そんな最低な父親とどうしてこれまで縁を切らなかったのかといえば、母や祖母の存在がわたしを支えていたからだった。父親との仲は冷え切っていたが、家族のあたたかさというものを母の実の家族である伯父や祖父母が与えてくれた。父親と縁を切れば、葬式にも呼んでもらえない(実際に勘当された姉は呼ばれなかった)。それだけは何としても避けたかった。

 

そして昨年、祖母が亡くなり、わたしの心の大きな支えを失うとともに、父親と関わりを続ける理由もひとつなくなった。父方の祖母と立て続けに亡くなったことで、二ヶ月おきのペースで父親と顔を合わさなくてはいけないのは憂鬱で苦痛で仕方がなかった。

 

それでもこれは祖母たちや母のためだと思って歯を食いしばって耐えたが、父親といる空気を致死量分摂取してしまった。薬を貰いカウンセリングに通っても、もう無理だった。

 

父方の祖母の一周忌が近づいて来たが、どうしても行く気になれなかったし、関西の自宅から甲信越地方にある山奥の祖母の家までの道のりは、正直一周忌には行かなくてもいい距離だと思って行けない理由を考えた。

 

わたしは父に、「文鳥の調子が悪くて家を空けられないので参加できません」とメールを入れた。実際に、一羽の文鳥の換羽が上手く進んでおらず、毎日薬をあげなければいけなかった。他にも色んな理由は浮かんだが、体調不良だというと「自己管理ができていない」と返ってくるし、忙しいと答えると「何ヶ月も前に日程を伝えていたのになぜ空けられないんだ」と返ってくるのが目に見えていたからだ。

 

既読になってからしばらく音沙汰がなく、数日後にようやく返って来たのがこの一文だった。

 

「多頭崩壊!」

 

この時、やかんが沸騰するように体全体に怒りが湧き上がった。文鳥を多頭飼いしていることを知っている父は、わたしにその管理の出来なさを責めるためにこの一文を送って来たのだった。たった一行の中に、これまでの父親の行動がすべて詰まっていた。それまでは上手く頭の中で記憶を誤魔化すようにしていたが、そのメールでこれまで父親にされて来た嫌なことの数々を思い出した。日も沈み真っ暗な緑地公園で、焚き火をしながらわんわんと泣いた。ああ疲れた。もう嫌だ。できることなら殺してやりたいと思った。

 

父親の名前の文字列を見るのももういやだった。本当はメールごとフォルダから消してしまいたかったが、いざという時のために証拠を失うわけにはいかないので、その場で父親の名前を「クソ親父」に変更し、着信拒否にした。姉と母には、メールのスクリーンショットとともに一連の流れを報告して、母にはもう「あの人には死んでもらってかまいません」と付け加えた。大好きな祖母の一周忌にも行かないし、実家にも帰らないと宣言した。

 

自分に長いこと刺さっていた長い棘がようやく抜けたような気がした。棘が抜けたあと、皮膚から血がでるみたいに、メールが来てしばらくは今までの疲れがどっと出てしんどい日々が続いた。それももうかさぶたになり、治りつつある。こらからはもう少し気楽に生きられるような気がする。

 

うんことコピ・ルアク

特別お題「わたしがブログを書く理由

 

いつだったか「なんのために書くのか」という記事を集めた特集を読んだ。ふうんと思いながらも自分なりの答えを探してみたが、その時は出なかった。でも急に、自分なりに腑に落ちる答えが出たのでここに書き留めておくことにする。

 

わたしにとってブログはきっと排泄と同じだと思う。日々わたし達は色んなものを身体に取り入れて生きている。肉や魚、卵にチーズ。それは決して食べ物だけではない。悲しい。ムカつく。美味しかった〜!あいつ死ねばいいのに、とか。日々色んな感情が渦巻いて、時にそれらを飲み込んでは溜め込んで生きている。

 

さて、では排泄をしないとどうなるか。ワールドびっくりニュース的なもので得た拙い知識では、うんことして排出できない物質が身体中から滲み出てくる……らしい。恐ろしい。とにかく、生きていくには食べたものを消化して排出しなくてはわたしたちは生きていけない。

 

胃や大腸の容量が決まっているように、目まぐるしく動く感情も、心のタンクがいっぱいになってしまえば、収集がつかなくなってしまう。わたしにとって、それらを排出する場所がブログなのだと思う。

 

 

ストレスを紙に書き出してみるとすっきりするというアドバイスをネット上で時たま見かけるように、自分が置かれている状況や感情を文字に起こしてみると気持ちがすぅっとする。一度文字にして送り出すと、そこに書いた出来事がまるで他人事のように思えてくるから気持ちが楽になる。

 

多分、気持ちを整理する方法は人の数あって(ひとりカラオケとか、推し活とか、写経とか?)、どうしてそれを選ぶのかというと「一番自分がいい気分になれるから」だと思う。

 

シンプルにわたしは文章を書くことが好きだし、自分の書く文章が好きだ。淡々としていてリズムがある(と自分では思っている)。それに、尊敬している友人がわたしの文章を好きだと言って、ブログの更新を楽しみにしてくれていることもモチベーションになっている。

 

 

さて、ブログを書くことが排泄だとすると、わたしがこれまで書き留めてきたものは残念ながらうんこということになる。

 

うんこ。どうかこれを読む人が食事をしながら読んでいないことを祈る。というか排泄というワードが出た時点で読み進めているとしたらもう自業自得か。まあいい。ブログを読まれることは自分のうんこを見せるくらい恥ずかしい行為だと思っている。それゆえに、匿名で書いているという節はある。

 

うんこは言葉通り汚物で、いってしまえば下痢とか、血が混ざっていたりとか、見た時に心配になってしまうようなものもある。でも稀に、思わず写真にとって人に見せたくなるような美しい造形のうんこが出る時はないか。うんこなのに美しい。矛盾してる?いや、そんなことはない。

 

人間は綺麗な生き物ではないと思う。憎しみとか嫉妬とか、汚いところが幾らでもいっぱいある。わたしは綺麗な上澄みだけを見せられても別に美しいと思わない。見せかけの、作られた部分だから。醜いとか恥ずかしいとか、そういう人間味のあるところにこそ美しさを感じる。

コピ・ルアクという幻のコーヒー豆がある。わたしはコーヒーをテーマにした映画やドラマに出てきたことで存在を知った。このコーヒー豆はざっと調べてみただけでも100gあたり五千円で売られているくらい高級なコーヒー豆だ。いつか飲んでみたいとは思いつつも、まだ飲んだことがない。

 

唐突に出てきたこの高級なコーヒー豆だが、これも実は元々うんこなのだ。正確には、真っ赤に熟したコーヒー実を選んで食べるジャコウネコという動物がいて、実の部分は胃の中で消化され、排出された豆を洗浄して乾かしたものがこのコーヒー豆になるという。

 

ジャコウネコは雑食で、鳥や哺乳類も食べるらしい。我が家の文鳥穀物と小松菜が主食なので、たまにうんこを見つめながらこれなら口に入れられかもなーと思ったりするが、肉と一緒に消化された排泄物を口に入れるというのはなかなかチャレンジャーだ。調べてみると、植民地時代に奴隷として働かされていた人たちが仕方なく飲んだのが始まりだそうなので、軽蔑などはできないが。

 

 

ということはだ、裏を返せば、感情をうまく自分の中で消化して排出することができれば、わたしのブログも、ただの汚物としてのうんこではなく、コピ・ルアクにもなる可能性も秘めているのではないか。

 

正直、書くのが苦しい時もある。文章を書くこと自体ではなく、その出来事や経験と向き合うことが辛い時がある。でもこれを書いて、醜くても、多少の苦しみを伴っても、感情の動きを見逃さずに文字で残しておこうと思った。

 

はてなブログという名のトイレにこもり、時に力んだり便秘になったりしながら、いつか美味しいコピ・ルアクを生み出すためにブログという排泄を続けるのだ。

 

 

#わたしがブログを書く理由

 

写真:舞鶴の喫茶モナミにて撮影

2023/9/15 特別お題のために内容を更新しました。

緑地公園と『二十億光年の孤独』

半年くらい前に原付バイクを買った。年代物のスーパーカブで、色はわたしの大好きなブルー。

 

車の免許を取った時もそうだったが、初心者の運転に不慣れな仕草が恥ずかしくて、初めは運転するのが少し嫌だった。青信号になったのにギアが入らなくて立ち往生したりとか、夕立にあってずぶ濡れになったりと、一通り恥ずかしい体験を乗り越えると俄然楽しくなる。恥ずかしいというよりも、不安で怖かったのかもしれない。

 

いま住んでいるところは住宅密集地で、近所にゆっくり出来るようなまとまった緑がない。いくら東京で数年間過ごしたからといって中身は都会人になったわけではなく、わたしは立派な田舎者のままで、定期的にまとまった緑が必要になる。

 

花粉の時期も終わったので、貴重な春の陽気をできる限り満喫するため、暇を見つけてはスーパーカブに乗ってツーリングに行く。最近の主な目的地は緑地公園。30分ちょっと走るだけで手軽に自然と触れ合うことができる。椅子を組み立て、小さなテーブルを開き、コーヒーを沸かして飲んだり、何もせず風に揺られてみたり、貧乏人の贅沢を楽しんでいる。

 

その中でも、木漏れ日をランプに本を読むことは、特別に至福のひとときだと言える。昨日は谷川俊太郎さんの『二十億光年の孤独』をジッパー付きの袋に入れて持ってきた(前回、裸でボディバッグに入れてきたら夕立に遭ったので反省を活かして)。

GW中ということもありいつもより子供の声が多く聴こえて賑やかだった

自然の空調と灯りの元で読むにはぴったりの本だ。順番は関係なく、目次を見て気になるページをランダムに開いて読んでいく。言葉のリズムに音楽を聴いている時のような心地よさがある。

 

谷川俊太郎さんが二十億光年の孤独を書いたのは終戦から間もない1950年頃、谷川さんが10代の終わりを過ごしていた頃で、当時の葛藤や心細さが伝わってくる。淋しさは憂いのようなものは伝わってきても、鬱々とした暗い印象を受けないから不思議だなあと思う。

 

そして、驚くのは当時詩を書き記したノートがそのまま載っていることで、70年が経った今もこうして貴重なものが見られることに感謝したい。わたしが10代にネット上に書き連ねていた詩のような文字の羅列は、たった10年ちょっと前だというのにもうどこにあるか分からない。

 

 

本を読んでいる間にいつの間にか夕方になる。本を閉じて、暖かい日差しが弱くなり、だんだんと風が肌寒くなって行くのを五感を使って感じる。気付けばあたりの家族連れはもうテントやシートをしまっていて、人はまばらになっている。

 

配偶者はいまだにワンタッチテントの中でぐうぐうと昼寝をしている。わたしは心地の良い孤独を愉しみながらあくびをした。

きゅうりのぬか漬け

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きゅうりのぬか漬けとは、このブログ名になっている食べ物であり、それは祖母の料理の代表作でもあった。

父親の母である祖母は、このブログでも以前書いたように人格的にかなり難ありな人だった。だが、料理の腕前は格別だった。

 

 

元々は女学校の先生をしていて、結婚してからは祖父のやっていた事業を手伝っていたらしい(葬式の時に父が話していた)。その傍らで、調理師の免許を取ったり(おばが同じタイミングで免許を取ったと言っていたのできっと祖母が40前後の頃)、裁縫も得意で自分で洋服を作ったりもしていた。色んなことを満遍なく器用にこなす人だった。

 

毎年、年末年始はその祖父母の家で過ごしていたが、年越しそばには当たり前のように祖母のこしらえた打ちたての蕎麦が出てきた。今思えば、何と贅沢なことだろうと思う。小学生の頃だったか、父と二人で祖父母の家に行った時、祖母と台所でじゃがいもの皮を剥いていると、本当はうどん屋さんになりたかったのだと教えてくれた。祖父と結婚したからその夢は諦めたそうだが、わたしたちには蕎麦だけでなく自慢の手打ちうどんも振る舞ってくれた。

 

親戚が多く集まるときにはお米をたくさん炊いて、大きな寿司桶に入ったご飯を祖母は小さな体で手際よく酢飯にした。祖母の指導を受けながら、わたしも甘辛く煮た油揚げに酢飯を詰める作業をよく手伝った。

 

その他にも、けんちん汁や、朝食に出てくるキャベツと卵の炒め物みたいな、いたってシンプルな料理も、祖母の作る料理はすべてが美味しかった。家庭料理ではあっても、何というか、プライドを感じる味だった。

 

そして、その中でもきゅうりのぬか漬けは絶品だった。これは大げさでなく、今まで食べたどんな漬け物よりも美味しかった。

いつ食べても同じ味で、ムラがなく、酸味がまろやかで美味しい。決して母をディスっているわけではないが、そのぬか床を貰って母がぬか漬けを作ってもどうしても同じ味にはならず、わたしはこれはきっと祖母の日々の努力の賜物なのだろうと考えるようになった。そのぬか漬けは、祖母本人の意図していないところで、物事を辛抱強くコツコツ続けることの重要さを教えてくれた。

 

 

やがて祖母の食への探究心は娘や息子に引き継がれていった。皆舌が肥えていて、親戚が集まると食卓にはそれぞれの担当したご馳走が並ぶ。旨い酒はバンバン売れていき、あっという間に空になる。おば2(父の妹)はただの一般人であることを疑うくらいに料理が上手で、天ぷらは衣が軽くてふわっふわだし、冷蔵庫にあるものでぱぱっと居酒屋のメニューのような一品を作ってくれる。

 

わたしも子供の頃から父親には美味しいものをうんと食べさせて貰った。人格は端的に言ってクソだが、それだけは感謝している。魚は、スーパーではなく那珂湊の魚市場まで買いに行き、ぶりや鮭は丸一本、秋刀魚にいたってはひとケース買って帰る。料理の中でのとっておきのご馳走という立ち位置のすき焼きは、秋冬になるとニ週間に一度くらい食べていたので、部活の友人からは羨ましがられていた。

 

 

こうして子供の頃から食の英才教育を受けてきたわたしは、とにかく美味しいものを見つける天才になった。どの店構えの定食屋が美味しいか、敷居が低いのにクオリティの高い居酒屋を見つける嗅覚があると自負している。難しい横文字のお洒落な料理はあまり作れないが、家庭創作料理であれば人を呼んでもてなす才能もあると思う。人生のネタが溜まったら、いつか小さな飲み屋を経営して人の話を聞きながら料理をふるまいたいという夢もある。

 

それ以外にも、定期的に色んな人から美味しい食べものが届く。おかげさまで痩せる暇がない。美味しい食べ物に恵まれる源流は、祖母の食への探究心にあることは間違いなく、祖母の貪欲さに感謝するばかりである。

 

わたしも誰かに美味しいきゅうりのぬか漬けを食べてもらうために、自分にとってのぬか床をせっせと手入れし続けなければいけない。祖母が亡き今、祖母の面影はぬか漬けという思わぬ形でわたしの人生で生き続けている。

読み書きの自分史

昨年、祖母が亡くなったこと以外にもショッキングな出来事が重なり、しばらく文章を書くことはおろか、本を読むこともできないでいた。一応、手に取ってはみるが、活字を追っていると苦しくなってすぐに本を閉じる……この繰り返しが続いた。

思い切って本という存在からは離れ、手持ち無沙汰になる瞬間はひたすら客に料理を提供するゲームで頭を使わないようにしていた。昨年末から新しくクリニックに通い始め、カウンセリングを受け出すと、それが効いてきたのか、本屋にも自然と足が向くようになった。料理のゲームは、いつの間にかログインボーナスすら貰わなくなった。

そして、久しぶりに本屋で手に取った本は、「本とは」とか「読書とは」というような、読み書きの原点に遡るような内容のものが目立った。*1

 

わたしは今どうして本を手に取ることができ、それを個人として所有できるのか。なぜそこに書いてある情報を受け取ることができるのか。そして、書くということはどういうことなのか。今までふわっと考えが浮かぶことはあってもいつの間にか忘れてしまい、書き留めることがなかったので、これを機に幼少期から大学生くらいまでの読み書きの自分史をまとめてみることにした。

 

読むことの自分史

子供の頃、当時住んでいた家(〜小学二年生まで)の、固定電話が置いてあった棚がわたしと姉の本棚になっており、正方形の名作絵本シリーズが並んでいた。母にはミニマリスト気質があり、それは当時から続いていたのか、家にあった子供向けの本は確か最低限で、代わりに母はよくわたしを図書館へ連れて行ってくれた。母の父(祖父)は書店を営んでいたので、母にとっても本のあるところは落ち着く場所だったのかもしれない。

 

特に好きだったのは『こまったさん・わかったさん』シリーズと魔法使いの女の子の本で、これは同世代の子はたいてい好きだったように思う。あと、『トラベリング・パンツ』も大好きだった。魔法強し。それらのシリーズを読み終えたあとは、グリム童話を貪るように読んだ。冊数が多かったので、終わりなくたくさん読めるのが嬉しかった上、絵本と違ってグロテスクな描写や刺激的な展開が多く、子供ながらにゾクゾクかつワクワクしながら読んだのを覚えている。

 

そして、この頃に読んだ本の中で『ヒッコリーの木の実』という絵本には特に愛着があり、大人になった今でも大事にとってある。

主人公はリスの母子で、ヒッコリーという名の木の実をたくさん拾い、厳しい冬を乗り越えるために色んな場所に埋めていく。冬になり木の実が取れなくなると、少しずつ掘り起こしていくのだが、そのうちのいくつかは忘れてしまう。しかし、それは春になると芽を出して、やがて大きな木になるというものだった。

 

これは母が何かの機会にわたしに贈ってくれたもので、今考えると母からのメッセージも含まれていたのではないかなと思う。自然の摂理を学ぶという意味だけではなく、成長していく過程で色んな経験をするが、あれは無駄だったなと思ったことが忘れた頃に案外大きな芽を出す……ということに通じている気がする。

 

中学校に上がると、小学校の時と打って変わって、全くと言っていいほど本を読まなかった。中学生が集まる場所といえばゲームセンターかTSUTAYAぐらいで、同級生にどこで見られているか分からない状態でゆっくり本を選ぶのが恥ずかしかったからかもしれない。お金を出して買うのはたいていアイドル雑誌かファッション雑誌だった。中三の時、仲の良い友人が『ノルウェーの森』を読んでいたときは、内心(大人っぽくて格好いいなあ)と、憧れの気持ちを持っていたこともある。

 

高校に入ると、昼休みの教室の空気感が苦痛になり、教室から逃げるための手段として図書室に入り浸るようになる。わたしの高校は、受験期を除けばほとんど図書室に生徒がいなかったので、たいていはその空間に司書さんとわたしだけで、贅沢な時間を過ごしていた。お店のように話しかけられる心配もないので、安心して色んな棚を覗くことができた。この頃になると、お気に入りの作家が出てきて、蔵書があるものを全部読み切るのが楽しみになり、タイトルと装丁だけで本を選んでみて、内容を予想するという遊びも覚えた。近所には綺麗な図書館があったので、週末にはそこにもよく通っていた。

 

大学生になって東京に出てくると、神保町という街の虜になった。街自体が大きな本屋のようで、どこからか本の香りが漂ってくるようだった。その頃は、文房堂で手に入れた豆本のイヤリングを好んでいつも身に付けていた。大人になってから各地の様々な街に足を運んだ今でも、神保町は一番好きな街のひとつで、東京に行けば特別な用がなくても気付いたら歩いている。

2013年頃の神保町

書くことの自分史

家族に見つからないことを祈って初めて公表するが、わたしの父親は国語科の教員で、作文については人一倍うるさい人間だった。こうしてわたしがこそこそブログを書いているのは、父からの影響が皮肉ながら大きいのだと思う。

 

小学校の宿題である夏の絵日記なんかにも添削が入るので、それはそれは鬱陶しかった。作文の類のものは、担任に直される上に、父親からの赤が入るので、他の同級生と比べると倍の量書き直しをしていたと思う。

そのおかげか、小学四年生の頃には担任に「全校集会で読むための作文を書いて欲しい」と頼まれた。当時はかなりの緊張しいだったので、人前で読むということに関してはボロボロだったように思うが、文章としてはそれなりに完成度の高いものを書いていたはずである。

 

読書感想文は、当時「そもそも読書感想文にはどういうものを書いたら良いのか」という方針自体を理解しておらず、ただただ苦痛な課題だった。興味のない本を無理やり読まされるのも嫌だったし、毎年のようにあらすじのようなものをだらだら書くだけでやり過ごしていた。

 

そして、小学校六年生の時、初めて小説のようなものを書いた。誰もいないはずの暗い音楽室からピアノの音が聞こえてくるという怪談話だ。蓋を開けてみたらそれはお化けの仕業などではなく、調律師がピアノを直しにきていたという結末だった(これはほぼ実体験なのである意味エッセイ的な要素が強い)。それなりに文章を書くことに自信があったわたしだが、その時は先生からはあまり良い評価を貰えなかったので、しっかりへこんだ。どのあたりが良くなかったのかは今でも疑問だし、正直今だにちょっとだけ根に持っている。

 

そのあと、本格的に作品として意識して者を書くようになったのは高校生の頃で、当時は自分のホームページを作る文化が流行っていた。前略プロフィールと呼ばれるページにリンクを貼ることができ、仲良しの友達や部活のHPを貼ったり、リアルタイムといってその時々の心情を短い文章で投稿するもの(今でいうTwitterのような存在)を貼るのが主流だった。それに加えて、わたしは自分で書いた詩を公開するためのページを作っていた。今思い出すとゾッとするけれど、この作品がよかったですなどとコメントをくれた人がいて、嬉しかった感覚を今でも覚えている。

 

高三くらいからはブログに手を出し、日記のような、改行がやたら多い取り留めのない文章を書き始めた。浪人生だった頃は、予備校にまともに友達がいなかったせいで孤独な時代を過ごしており、ブログだけが東京に行ってしまった友人たちへ自分の現状を伝えるツールだった。わたしはここで生きているよ!忘れないで!ということを遠回しに必死で伝えていた気がする(この頃は痔がひどくて本当に色々しんどかった)。

 

論理立った文章を意識して書くようになったのはこの予備校時代で、小論文の授業には必要以上に腰を入れて臨んでいた。結局、受験もボロボロだったし、試験にもまともに活きたような気はしないが、論理的な文章を書くという勉強ができたことはよかったと今では思っている。その時に書いた課題で、講師に「減点するところがない」と言って生徒全員の前で読み上げられた時は本当に気持ちが良かった。いつかその講師にこんなものを書いたと胸を張って会いに行ける日が来るといいなと思う。

 

大学生になると、書いたものが授業で例として挙げられ、褒められるという経験が続いた。英語の必修の授業(スパルタ講師で有名で、必修にもかかわらず終盤になると1/3が辞めた)では、毎週お題が決められ、それにそったエッセイを英語で書いてくるという課題が出されていたが、ある日、「Cute」というお題が出された。他の生徒たちが可愛いものの話を書いてきた中、わたしは「Cuteとは形容詞の一つで、発言する人間と対象が変われば使用する意図が変わってくる。そして、わたしは同性にCuteと言われることがあまり好きではない」という内容の話を書いた。そのスパルタ講師は滅多に人を褒めることがなかったが、「君はクレバーだね」とわたしに言ってくれた。それは当時のわたしにとって最大の誉め言葉で、大学時代の中でも一番と言っていいほど最高な瞬間だった。同時にわたしが「賢いと思われること」に飢えているのだと認識する出来事でもあった。

 

文章を書く理由

こうして時系列に沿ってまとめて見ると、今自分が当たり前のように文字や文章を読んで、物を書き、人に公開する手段があるということはとても幸せなことだと思える。それと同時に、紙というものを媒体とする必要がなくなっていくことが惜しくてたまらないし、大好きな本屋の香りもいつかは無くなってしまうのかもしれないと思うと切なくなる。

 

結局のところ、これらの経験が自分の人生にどれほど役に立っているかと言われると、労力を結構かけている割りには、ブログにくらいしか活かせていない(こちらのエッセイは丹精を込めて書いたので、是非読んで欲しいと思う→ たとえお金がなくても。豊かな心を育んでくれた街「水戸」 - SUUMOタウン)。では何故、大きな得になっていないのに書き続けているのかと考えてみたが、わたしはいつか無くなってしまうかもしれない景色を、誰かの目に浮かぶように文字に残しておきたいのだと思う。

 

自分の埋めてきた種たちがいつか芽を出して大きな木になる日が来ると信じて、今日も種を土の中に埋め、それを忘れたことにしようと思う。

*1:『本の世界を巡る冒険』『読書の価値』

知恵の輪

コロナが少し落ち着いて、やっと遠出ができるかと期待していたら、思いがけず家族!家族!家族!な一年になってしまった。

色んな場所に足を運んだが、結局どれも弔事に関するものばかりで、葬式に向かう途中に寄ったSAの記憶とか、実家へ向かう新幹線からの景色ばかりで、友人にもまともに会えずに東京駅で買ったジャージャー麺をホテルで頬張っていた記憶しかない。

改めて、嫌というほどに「家族」の面倒くささを思い知らされた一年だった。もうお腹いっぱい。はち切れそうである。ジャージャー麺も家族も腹八分がちょうどいい。

 

街行く人々に、「あなたにとって家族とは?」と唐突に尋ねてみたい。どんな答えが多く返ってくるのだろうか。愛?ホーム?それとも暖かい毛布?

 

わたしにとって家族とは鉄の鎖みたいなものだと思う。重くて、冷たくて、人の自由を奪うような。

わたしの家族はとっくに破綻していて、実の家族が最後に揃ったのは、叔母の旦那さんが亡くなった時で、それすらもう何年前か定かではない。葬式の数時間前に、回転寿司で食事をとったのが四人家族での今のところ最後の食事になった。次、家族全員が揃うのは、きっとこのうちの誰かの葬式なのかもしれないな、とぼんやり考えたりする。

 

まともに家族旅行に行った記憶は小学生で止まっているし、そもそも家族が全員揃うということが皆無になった。とどめを刺したのは二人のばあちゃんが死んだことで、姉は結局どちらの葬式にも招待されなかった。姉の話をすることは、もはや我が家の中だけでなく、我が一族の中でもタブーになった。

KevによるPixabayからの画像

わたしの家系からはちょいちょい人が離脱していて、父親の兄がそうなのだけれど、祖母のお悔やみを新聞に掲載してもらう時、父は続柄を「次男」として掲載することをしばらく悩んでいた(最終的には公表した)。結局、「外からどう見えるか」が、いつ何時も父にとっては優先事項なのだと思う。

 

父と夫とわたしの三人でお墓を掃除しに行ったとき、父は墓石に刻まれたご先祖さまの話を始めた。この家を守るために、養子として迎えられた人がいることを知った。そうしてここまで、この家は続いてきたのだと父は話した。きっと当時の時代はそれが当たり前だったのだろう。でも今は違う。

 

もう長いこと会っていない父の兄には、息子と娘(わたしにとっては従兄と従姉になる)がいて、本来であればきっとその息子がこの家を継ぐ役割に自動的になっていたのだと思うが、完全に縁が切れてしまった今、わたしの父の後を誰が継ぐかというのが一族の大きな問題になっている。

 

父親はもともと、わたしの姉に自分の理想に見合った結婚相手を見つけてきて、自分の後を継がせる気満々だった。そのため、姉には当時長年の彼氏がいて、紹介もしているというのに、両親は姉の名前で勝手に結婚相談所に登録した。それが問題のある業者で、クーリング・オフしたことを母が姉に報告することで自体が明るみになったが、姉と私にとっては恐怖や怒りを感じる出来事でもあった。

『箱入り息子の恋』という映画の中で同じような描写があった時、テアトル新宿で「まじか」と笑っていた立場だったのに、数年後、自分の身の回りで同じ出来事が起こるなんて思わなかった。全然笑えないけど。

 

父はその後、姉に「その男と結婚するのは自由だけど、それなら誰の葬式にも呼ばない」と半ば脅しのような手紙を送った。姉は元々平和的な解決を望んでいたが、その手紙を読んだことで、もう父とまともにやり合うのは無理だと諦め、当時の交際相手とようやく結婚する運びになった。でもこれは、姉が悪いわけではない。あまりにも父の理想とかけ離れていた相手だったために見放された、ただそれだけのことだと思う。

 

父は今更になって養子を取ることを考えたり、わたしの夫を継がせようと企んでいるらしい。わたしたち家族はとっくに“終わっている”というのに、一体何を守ろうと言うのだろう。

 

わたしの下には三兄妹のいとこがいるが、母は「三人いるんだから一人ぐらい継いでくれてもいいのにね」と言った。父も父だが、母も母だ。わたしにはそれがまるで生贄のようにしか聞こえなかった。本人の意思に関係なく、家を存続するためにあてがわれる存在?生贄を神様に差し出したところで、雨雲が無くならない限り雨は止まないというのに。

 

親族が集まる場に行くと、父も叔母も、わたしと夫が後を継ぐことを期待していることが伝わってくる。きっとそれが一番まるく収まる方法なのだろう。でも仮に、わたしの夫が父の後を継ぐとして、またその後を継ぐ人間が必要になる。そのためか、叔母は何の躊躇もなく、わたしに何故子供を産まないのかと聞き、子供は早く産んだ方がいいと勧めてくる。

 

親世代の人間たちは何の躊躇もなく、子供を産め産めと言うけれど、物価や光熱費は上がり、薄皮クリームパンが五個から四個になるという時代に、どうして無責任にそんなことが言えるのだろう。

跡継ぎを見つけたところで、自分たちは使命を果たしたと満足するのかもしれないが、その後生贄に差し出された人間の未来を考えたことはないのだろうか?わたしに課された使命は、この一族を守っていくことではなく、きちんと終わらせることなのかもしれないなとすら思う。きっと、こんなことを考えていることが知れたら、父は姉以上にわたしを一族から追放するのだろう。

 

重い鎖は解こうとしても知恵の輪のように解けそうで解けないままで、今もわたしに絡みついている。そして、クリスマスにこんな話を書いているわたしも、それなりに十分終わっている。

祖母からの最後の贈り物

父方の祖母の四十九日の法要が終わり、ああ、そろそろさすがにクリーニングに出した喪服を取りに行かなきゃなあと思っていた日曜日の朝、水戸に住んでいる母方の祖母が亡くなったと母からメールが来た。信じられなくて、嘘だと思いたくて、ベッドの上で子供のようにわんわん泣いた。

 

すぐに電話をかけると、母でさえ祖母に会えていないのだと言う。深夜のニ時くらいまで、母は祖母の面倒を診ていたそうだが、朝になって呼吸が弱くなっていることに気付き慌てて救急車を呼ぶも、病院に運ばれてそのままだったそうだ。母はわたしの性質をよく知っているので、「帰って来ても会えないから、急いで帰って来なくていいからね」とわたしに念を押した。

 

どうして母が会えないのか、わたしが帰っても会えないのかと言えば、祖母がコロナに感染していたからだった。

でも、ニュースで見ていたように、きっと数日後にはビニール越しに会えるのだろう。少なくとも遺体とは対面できるのだから、状況がはっきりするまではじっとしておこう、と思っていた。

でも、残念ながらそうはいかなかった。母からはまたメッセージが来て、そこには「おばあちゃんは夕方にお骨になって帰ってきます」と一言だけ書いてあった。画面に映るその一行が信じられなくて、わたしは現実を受け止めることを拒絶し始めた。

 

 

それまでの出来事を少し整理すると、話はそれから十日ほど前に遡る。母から、姉と三人のグループラインにコロナに感染したと連絡が入った。母のことはもちろん心配だったが、一番気がかりだったのは実家で母がつきっきりで介護している祖母のことだった。残念ながら母の感染が発覚した翌日には祖母の陽性も判明してしまった。ケアマネージャーさんが保健所に掛け合ってくれたようだが、当時は特に感染者数が多い時期で、熱の症状だけでは受け入れてくれる場所はどこにもなかったそうだ。

週に三度ほど訪問してくれていた医療スタッフも家には立ち入れなくなり、病人の母が病人の祖母の面倒をみるしかないという途方もない状況だった。父は初めから祖母の介護には関わっておらず、「自宅で面倒を見るのは結構なことだけで俺は知らないよ」というスタンスで、最後まで我関せずを貫いていた。わたしは少しでも何か出来ることをしなければ、と尿とりパットや介護食、療養中に母が食べられそうなものをパッキングして送ったりしたが、それくらいのことしか出来ないのが虚しかった。

数日で母は回復し、「おばあちゃんも良くなってきているから安心してね」と連絡を貰っていたので、もう大丈夫だとホッとしていた。もうすぐお盆だからその時は絶対に会いに帰ろう、と決意した矢先に祖母はいなくなってしまった。

 

祖母はコロナが流行し始めたと同時期に、胃がんの手術をすることになって入院した。ずっと横になっていたことと面会がしばらく出来なかったことがきっかけで、足は弱り、認知機能も急激に衰えてしまった。それから、祖母が使っていた和室には介護用ベッドやポータブルトイレが導入されて、祖母と母の介護生活が始まった。あれよあれよという間に要介護度は上がっていき、最後に母が介護していた時には要介護度は5になっていて、排泄も人の世話を借りずにはできず、とろみのついた食事か流動食しか食べられない状態だった。

 

わたしが最後に祖母に会えたのは、亡くなる一年半前、パンデミックが始まってからは丸一年が経つ頃だった。

その時もうすでに、わたしのそれまで知っていた祖母の姿はなく、痩せ細り皮と骨になってしまった祖母がベッドに横になっていた。ゆっくりと話すことはできても、半分は夢の中にいるようで、意識が遠くの方に飛んでいく感じだった。祖母は、わたしだと分かると「おばあちゃんね、ポンコツばあさんになっちゃったの」と冗談を言うように笑いながら何度も言った。自分で歩くことも、お風呂に入ることもできず、排泄さえ誰かの手を借りないといけないことは祖母にとって受け入れがたいことだったのだと思う。わたしはそんなことないよ、と笑って返すのがやっとで、祖母を前にして涙をこらえるのに必死だった。これからもまだ何度も祖母に会いたいと思う反面で、正直なところでは早く楽になって欲しいとも思った。

 

わたしは悔やんだ。実家に帰ると厄介な父がいる。そのため、帰省をしても用事を作ってどこかに出かけたり、長居をせずに帰ることがほとんどで、関西に引っ越してからは特別な用事がない限りニ年に一度くらいしか帰っていなかった。祖母に対して、罪悪感すらも感じていた。何故ならば、元気だった頃の祖母にかけられた最後の一言が「もう帰っちゃうの」だったからだ。あの悲しい顔を思い出すと、どうしてもっと帰らなかったんだろう、長居をしなかったのだろうという後悔ばかりが募った。コロナが流行り始めた直後に帰れる機会があったが、その時はどう動くのか正解が分からず、大事を取って帰らなかった。あの時帰っていたらもう一度元気な祖母に会えたかもしれないが、無理にでも帰ればよかったのだろうか。

それからというもの、悲しんでいるわたしを見かねた夫は、何度も「おばあちゃんに会いに行きなよ」と言ってくれたが、会いに行きたい気持ちと、もしかすると自分が死のきっかけを作るかもしれないという気持ちが天秤にかかり、いつも後者が少しだけ傾いて、会う機会はどんどん後ろ倒しになった。

 

祖母の訃報を聞いてから数日が経ち、葬式のために実家に帰ると、祖母が過ごしていた和室には祭壇が設けられ、ようやく会えた祖母はすでに真っ白い骨壷の中にいた。遺影に写る祖母はもうすでにご先祖さまの顔をしていて、もう手の届かない遠いところにいることを痛感させられた。

 

わたしの覚えている祖母は良い意味で適当な人で、雰囲気がまあるく、物腰の柔らかい人だった。好きな時にお風呂に入り、洗濯物を回して、よく縁側の椅子に座ってラジオを聴いていた。ご飯を三食食べるのが面倒な人で、モスバーガーが好きだった。自由で穏やかで、祖母の周りにはいつもゆったりとした時間が流れていた。にっこりと笑うと、尖った八重歯がちらりと覗くのがチャーミングな人だった。

 

そんな祖母の晩年は、きっと寂しくしんどいものだったと思う。祖父が二十年前に亡くなってからは伯父と二人で暮らしていたが、その伯父も突然事故で亡くなってしまった。実の息子を亡くして、長年暮らしていた家を離れ、義理の息子と同居するのは肩身が狭かったと思う。事実として、同居が始まるときに祖母から「毎月いくら納めればいいですか」と言われたことをあとになって父から聞いた。

 

そんな祖母が気がかりで、わたしがまだ関東に住んでいた頃は、定期的に祖母に会いに行った。今の夫との結婚を巡って父と冷戦状態の時は、両親の不在時を狙ってこっそり祖母に会いに行った。玄関のドアを開けると、祖母は「帰ってくる気がしてた」といたずらっぽく笑い、わたしの帰省を喜んでくれた。お昼には駅前でお土産に買ってきたお寿司を一緒に食べ、夕方には、わたしに何か食べさせたいと思った祖母が取ってくれた出前のカルビ弁当を食べた。結局、弁当のゴミが二つ捨てられていたことで、わたしがこっそり帰ったことは母にバレてしまったが、その記憶はいつでもわたしの心を温めてくれる。

 

 

葬儀が行われるまでの間、わたしは祖母が遺した写真を整理することにした。百貨店の名前が印字されたの大きな紙袋の中には、アルバムや写真の詰まった封筒がぎっちりと入っていた。

その中には、祖母が旅館で働いていたときの社員旅行で日本各地を観光している様子や、お酒を飲む祖母の姿も映っていた。いつもはにこっと控えめに笑う祖母が、口をガハハと大きく開けて笑う姿を初めて見た。家族写真も多く残っていて、芝生に座っておにぎりを頬張ったり、母と顔を見合わせるようにして楽しそうに笑う祖母の姿を見つけたときは、わたしが思っていたよりもずっと祖母は幸せだったのだなあと思い心の荷が軽くなったのを感じた。

 

紙袋の中には祖母以外にも、もうこの世には居ない、祖父や大叔母、伯父、わたしが産まれてから色んな節目を見守ってくれ、目尻に皺を寄せてうんうんと話を聞いてくれた人たちの写真がたくさん残っていた。母や伯父の子供の頃の写真や、写真を撮っている祖父の姿、曽祖父や曽祖母の姿もあった。ほこりっぽくて全然整理のされていない写真の束は、祖母が最後にわたしに遺してくれた最後で最高の贈り物だと思った。それらの写真から、自分の手元に置いておきたいとっておきの写真をランダムに抜き取ると、一つのアルバムにまとめた。

葬式の朝、わたしがベッドでごろごろしていると、母が洗濯物のカゴを抱えて入って来て、洗濯物を干しながら「おばあちゃんは幸せだったのかなあ」とぼそっと呟いた。

祖父は戦争で片手を失っていて、いわゆる傷痍軍人だったが、祖父の母は厳しい人で恩給を断るように言ったそうだ。確かに、写真で見る曽祖母はどの写真も険しい顔をしていた。祖母はもともとお嬢様だったようだが、祖父と結婚してからはお金の面でかなり苦労していたらしい。でも、写真の中に見つけた祖母の姿はとても生き生きとしていて、貧しさよりも豊かさが伝わってきた。母に「おばあちゃん、結構色んなとこに出かけたり、お酒も飲んだり、結構楽しそうにしてたみたいよ」と整理した写真を渡すと、母は意外そうな感じでそれらを見つめ、少し安心した表情になったような気がした。

 

祖母の葬式は、祖母の故郷近くの海のそばにある街中の小さなセレモニーホールで、親戚のみでこぢんまりと執り行われた。姉は父方の祖母の葬式と同じく参列せず(できず)、孫世代はわたしだけで、この前父方の祖母の法要で会ったばかりのおばたちにこんな形ですぐに再会するのは切なかった。遺体のない葬式はどこか物足りなく、涙を流すタイミングもないままあっけなく終わってしまった。祭壇が胡蝶蘭や菊で盛大に彩られていたのが、わたしにとってはせめてもの救いだった。

 

葬式が終わってから実家を出るまでの間、わたしはたくさんの花に囲まれた祖母のそばに大の字に寝っ転がり、線香の香りを嗅いで何もせずにゴロゴロして過ごした。頻繁に会いに帰れなかった分、祖母の座るそばで昼寝をしていたときのような、温かくて安心した気持ちをもう一度感じたかった。

 

葬儀を終えて関西に帰ってからも、わたしは祖母がいなくなったという現実をなかなか受け止められずにいた。三十路を過ぎ、祖母が亡くなることは自然の摂理として当然なことなのに、どうしてこんなにも胸が詰まるほどに苦しいのだろうとずっと考えていた。

祖母はわたしにとって、最後の砦だったのだと思う。この世から消えてなくなりたいという衝動に駆られた時、祖母の顔がいつも最初に思い浮かび、歯止めをかけてくれていた。祖母のいなくなった世界は、肌寒い夜に薄いタオルケットを一枚で眠っているときのように心細かった。

 

数ヶ月前にもう一人の祖母を見送ったことでより実感したことは、葬式とは人の死を頭と心で理解するために必要な手順なのだということだった。訃報が入ってから、喪服を身にまとい、遺体と対面して納棺を見守る。焼香の香りを嗅ぎながら読経を聞き、木魚のリズムに合わせて故人を見送る心構えを整えていく。その手順をひとつすっ飛ばしてしまった分、気持ちの消化も心の整理も出来ずにしばらくの間過ごしていた。

 

祖母が亡くなってから季節がひとつ巡り、ようやくこうして気持ちを文章に起こすことができたが、わたしはこの話をパソコンの画面の前でボロボロとひどい顔で涙をこぼしながら書いていた。上手く順序立てて書けているか不安だし、適当な見出しでさえつけられない。

 

この文章を読んだ人に勘違いして欲しくないのは、わたしは不幸自慢がしたいだとか同情して欲しいとかそういうことではない。きっと、タイトルを『祖母がコロナで死んだ話』とかにすれば閲覧数は上がるかもしれないが、バズりたいからこれを書いているわけでもない。ただ自分の身近に起きた事実と、時間とともに薄れてしまうであろうこの気持ちを残しておきたかった。

 

ただここにあるのは、大好きなおばあちゃんがこの世にはもういないという事実と、わたしはこの事実を受け止めて自分の人生を生きていかなければならないということだ。祖母がこの世にもう居なくとも、祖母の遺してくれたアルバムがそばにあれば、きっとわたしはこれからも色んなことを乗り越えていけると思う。