緑地公園と『二十億光年の孤独』

半年くらい前に原付バイクを買った。年代物のスーパーカブで、色はわたしの大好きなブルー。

 

車の免許を取った時もそうだったが、初心者の運転に不慣れな仕草が恥ずかしくて、初めは運転するのが少し嫌だった。青信号になったのにギアが入らなくて立ち往生したりとか、夕立にあってずぶ濡れになったりと、一通り恥ずかしい体験を乗り越えると俄然楽しくなる。恥ずかしいというよりも、不安で怖かったのかもしれない。

 

いま住んでいるところは住宅密集地で、近所にゆっくり出来るようなまとまった緑がない。いくら東京で数年間過ごしたからといって中身は都会人になったわけではなく、わたしは立派な田舎者のままで、定期的にまとまった緑が必要になる。

 

花粉の時期も終わったので、貴重な春の陽気をできる限り満喫するため、暇を見つけてはスーパーカブに乗ってツーリングに行く。最近の主な目的地は緑地公園。30分ちょっと走るだけで手軽に自然と触れ合うことができる。椅子を組み立て、小さなテーブルを開き、コーヒーを沸かして飲んだり、何もせず風に揺られてみたり、貧乏人の贅沢を楽しんでいる。

 

その中でも、木漏れ日をランプに本を読むことは、特別に至福のひとときだと言える。昨日は谷川俊太郎さんの『二十億光年の孤独』をジッパー付きの袋に入れて持ってきた(前回、裸でボディバッグに入れてきたら夕立に遭ったので反省を活かして)。

GW中ということもありいつもより子供の声が多く聴こえて賑やかだった

自然の空調と灯りの元で読むにはぴったりの本だ。順番は関係なく、目次を見て気になるページをランダムに開いて読んでいく。言葉のリズムに音楽を聴いている時のような心地よさがある。

 

谷川俊太郎さんが二十億光年の孤独を書いたのは終戦から間もない1950年頃、谷川さんが10代の終わりを過ごしていた頃で、当時の葛藤や心細さが伝わってくる。淋しさは憂いのようなものは伝わってきても、鬱々とした暗い印象を受けないから不思議だなあと思う。

 

そして、驚くのは当時詩を書き記したノートがそのまま載っていることで、70年が経った今もこうして貴重なものが見られることに感謝したい。わたしが10代にネット上に書き連ねていた詩のような文字の羅列は、たった10年ちょっと前だというのにもうどこにあるか分からない。

 

 

本を読んでいる間にいつの間にか夕方になる。本を閉じて、暖かい日差しが弱くなり、だんだんと風が肌寒くなって行くのを五感を使って感じる。気付けばあたりの家族連れはもうテントやシートをしまっていて、人はまばらになっている。

 

配偶者はいまだにワンタッチテントの中でぐうぐうと昼寝をしている。わたしは心地の良い孤独を愉しみながらあくびをした。