墓参り、江ノ島の夕日

これは11月11日から、文学フリマに合わせて東京や地元の水戸、その他関東近辺を旅した際の記録です。前記事はこちら。

水戸駅、バーミヤン、駆け込み寺 - ぬか漬けは一日にしてならず

墓参り

旅3日目。Cが車を出してくれ、母方の先祖の墓のある大洗まで墓参りに行った。東京に滞在する時間よりも水戸にいる時間を多く取ったのはこのためだった。大洗はCの好きな有名なアニメの舞台になっており、わたしが墓参りしている間、聖地巡礼しているねと一人の時間を作ってくれた。

 

国道51号線沿いのセブンイレブンで買った二束入りの線香に点火を試みる。これはわたしが煙草を吸えない理由の一つでもあるのだが、わたしはライターが怖い。小学生のアルコールランプの実験から火が怖くて大量の水が側にないと火が付けられない。表面が燃えては消えての繰り返して、結局バラして7本だけ点火した。

 

思えばこれではいつも誰かと一緒に墓参りに来ていた。遠い記憶を辿れば大叔母も祖母も伯父もいて、父と母、姉の家族四人で来たことが一番多かったはずだ。結婚話がもつれて父親と冷戦中、父の怒号を受けつつ母と二人で来たこともあった。

 

でも、自分だけで来るのはこの日が初めてだった。寂しさと同時に、一人で墓参りに来るくらいわたしはもう大人になってしまったことを思い知らされる。去年、祖母が亡くなって、まるで自分の一部がちぎれてしまったくらい毎日泣いて過ごしていたのに、今ではもう墓の中にいることを受け止めていて、この日の晴天の清々しさを感じてさえいた。

 

墓参りを終えた後、大洗で海鮮丼とあん肝を食べ、水戸の中心街に戻ってからは新しくできた水戸市民会館を見学しつつ、泉町仲通商店街のSOTO COFFEEさんにてコーヒーとクッキーをいただいた。

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当たり前のように店員さんがコテコテの茨城弁で話してくれるのが嬉しい。北関東以外の人に伝えるのは難しいが、お洒落に言うと、茨城弁はフランス語のように語尾が上がる。

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今年、魅力度最下位に返り咲いた茨城県。多くの茨城県民が思っているのと同様に、わたしも良くやった!良く奪還した!と思っている。我々にとっては魅力度最下位こそがチャンピオンベルトのようなものである。

 

人生は不運な出来事の方が目立つけれど、水戸で生まれ育ったことはわたしの人生で起きた幸せな出来事のひとつだとこの旅で気付けた。

 

江ノ島の夕日

この旅程を組んだ時、本当はこの日の飛行機で帰る予定だった。でも、出発の一週間くらい前になって旅程を伸ばすことにした。

 

Cに水戸駅まで送ってもらい、次の目的地である藤沢へと向かう。この日から藤沢のホテルを2泊分取ってある。ここからは誰とも会う予定はない。なんとなく旅の見積もりだけはしてある。夜に宿につき、ようやく腰を下ろす。旅というのは気楽だが拠点がない分心細いけれど、今日からはしばらくここが拠点になると思うと、ふっと肩の力が抜けた。

 

旅4日目。藤沢駅からJRで鎌倉駅へ向かい、銭洗弁財天へ。地図を見ると結構歩くらしい。駅から北西へ進んでいくと、飲料メーカーのドライバーさんがコンテナをぶちまけるという漫画のような瞬間に遭遇した。目の前に散らばる大量のペットボトル。せめて車道にはみ出ないよう、転がるペットボトルをわたしも慌てて抑えた。漫画ならここで恋が始まっているところだが、現実なのでただシンプルに励ましの言葉を残して立ち去った。

 

到着時刻的にはそろそろ着きそうな頃、突如急な坂が出現。一体いつまでこの坂は続くんだと途方に暮れかけていると目の前に洞窟のような道と鳥居が現れた。

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石の長いトンネルをくぐると、そこには本殿があった。駅から向かう平坦な道と比べると、空気が一段階や二段階もひんやりしていたような気がする。

 

ざると蝋燭などの参拝用セットを購入し、初めての銭洗いに挑戦。濡れたお札を入れるための袋も売っていて、(いや要らないでしょ)と内心思ったが、いざお札を洗ってみるとどうしよう……となるのでこれから行く機会がある人にはおすすめしたい。結果、ウェッティーな英世はティッシュに包まれながらバックの中でひっそりと過ごすことになった。あと多分、本当のお金持ちになれる人はここで諭吉を洗える人だと思う。

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再び石のトンネルをくぐり、鎌倉駅にてくてく戻る。今度は方角を北東に変え、小町通を通り抜けて鶴岡八幡宮へ。食べ歩きグルメの誘惑に負けそうになりながら、結局みたらし団子だけ買った。あっさり負けた。ちなみにカレーパンも食べたかったがめちゃくちゃ並んでいたので断念。

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それにしても絶好の鎌倉観光日和ではないか。青空と鳥居の朱色のコントラストの綺麗さよ。

そして、なんと中学一年生の修学旅行以来の鶴岡八幡宮。当時の集合場所であった舞殿、記憶ではもっと広いものだと思っていたら実際は想像の半分くらいだった。子供の頃に訪れた場所が案外コンパクトだったと大人になってから気付くことはよくある。

 

配偶者が大事な試験を控えているので、銀杏の形の絵馬に合格を祈って書いた。その後、鳩や池を泳ぐ鴨を眺めながら、ゆったりとした時間を過ごした。空を飛ぶ鳥も良いが、わたしは水を泳ぐ鳥が好きだなあと思う。

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その後、豊島屋で鳩三郎キーホルダーを購入し、漬物屋で漬物を購入し、足早に鎌倉を後にする。今日の一番の目的は江ノ島で夕日を見ること。思いの外漬物屋に長居してしまったせいで、江ノ電では寄り道することなく江ノ島駅へ。

 

ほどなくすると江ノ島タワーが目に入ってくる。西日が眩しい。江ノ島、前は誰と来たんだっけな、と記憶を掘り起こしてみたけれどすぐに埋め戻した。この辺り、大学時代にも先輩や友人など色んな人と来たなと懐かしい思い出が蘇る。

 

江ノ島駅に到着したのが15時すぎ。もう日が低くなり始めている。このまま江ノ島神社のあの階段を登るのか、時間的にも体力的にもきついなと思っていたら視界に飛び込むエスカー(江ノ島には階段をスキップできるエスカレーターがある)。ご利益が少し減るのではないかと心配しつつも、勇足でチケットを購入していた。

 

江島神社にお詣りをしつつ、基本的に早足で進む。夕日の見えるスポットまでは島をぐるっと回らないといけないので先を急ぐ。

この日の日没は16時半頃。江ノ島を半分くらい過ぎた頃、まだ30分くらい余裕がある。このまま行くと逆に時間が余るかと思っていたら、商店のラーメンのディスプレイに目が止まった。今日は朝ごはんを食べただけでみたらし団子以降何も食べられていない。

 

表ではさざえのつぼやきや焼きはまぐりが売られているなか、それには目もくれることなく入店。シンプルなラーメンが食べたい。温かいスープが飲みたい。

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いざ着丼。なんの変哲もない醤油ラーメンだが、肌寒い一日を歩き回った身体には抜群に沁みた。オフィス街の牛丼屋であるかの如く夢中でラーメンを食べ終えると、夕日を見る準備は万事整った。

 

奥津宮で最後のお参りを済ませると、これまで登りが続いたのに、下りの階段が続々と登場。すれ違う人たちが揃って息を切らしながら登ってくる。さてはみんな運動不足だなと、この数日一日二万歩近く歩いたわたしは高みの見物で通り過ぎようとした。その時一人のおばさまが放った「こここそエスカー必要じゃない?」という一言が耳に残る。数十分後、わたしはこの言葉に大きく頷くことになる。

 

踊り場にたどり着くと、待ち受けていたのはこの景色だった。

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ここからはもう言葉は必要ない気がする。いつか見た江ノ島の夕日。いつかまた見たいなと思って、いつの間にか今日になってしまった。わたしはしばらくの間、夕日が沈みゆく光景をずっと見つめていた。

水戸駅、バーミヤン、駆け込み寺

これは11月11日から、文学フリマに合わせて東京や地元の水戸、その他関東近辺を旅した際の記録です。

https://misoshiruko.hatenablog.com/entry/2023/11/19/文学フリマ、ホッピー通り、常磐線

前記事はこちら。

 

水戸駅

11月12日、上野から常磐線の鈍行列車に乗る。通路を挟んで反対のボックス席では、おばあちゃんが自分で握ってきたであろうおにぎりを何故だかこっそりと食べていた。常磐線のボックス席ではいつも誰かしらが何かを飲み食いしている。

土浦で水戸行きに乗り換え、外を眺めたりうとうとしているうちに水戸に着いた。

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高速バスで帰る時は途中で路線バスに乗り換えるため、水戸駅までわざわざ来ないので、この景色を見るのはもう五年ぶりくらいのことになる。不覚にも改札が視界に入った段階でうるっときてしまった。

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改札を出ると、案内板だけでなく、広告も地元の企業や学校ばかりで、あれも知ってるしこれも知っているぞ!と嬉しくなる。どーもくんに至っては納豆のコスプレをしているし。ダサいとか通り越してもうただひたすら愛おしい。いままではこの景色が当たり前すぎて、視点がそこにいくことがなかった。それにしても水戸駅、いつの間にかちょっとお洒落で綺麗な駅になったなあ。

新しい街に住む時、内見でふらっと訪れた時と実際に住んでみてからでは街はまるで違って見えるけれど、離れてみるとさらにその向こう側からの景色が見えるのだなあと思う。 

 

そして、わたしがまだ水戸に住んでいた頃は、友達と遊ぶ時といえばこの改札前で集合するのがお決まりだった。

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同級生らもそこで待ち合わせをするので、お盆や年末年始になるとこのエリアが小さな同窓会のようになった。

いまはもうわたしの知り合いは誰も立っていなくて、わたしたちよりもずっと若い世代が待ち合わせの誰かを待っている。

 
バーミヤン

水戸駅構内の写真をバシバシ撮っていると、そろそろ着くよーと友人から連絡が入る。南口のロータリーに降りると、高校時代の友人Mが車で迎えにきてくれていた。ふたりで息継ぎする間もなく話に夢中になっていると、遅れて友人Aも到着して、国道沿いにある喫茶店へと向かった。三人で会うのはコロナが流行る直前、京都の赤垣屋で飲んだ以来のことになる。

 

目的地の駐車場に着くと、バーミヤンの看板が目に入る。皆その存在に気付き、「バーミヤン行く?」と冗談で笑いながら喫茶店に入店するとまさかの満席。「じゃ、バーミヤン行こ」とさっきの冗談が本当になった。

軽くお茶をするつもりが、バーミヤンに来てメニューを開いたらお腹が空いてきて、それぞれチャーハンと坦々麺、バーミヤンラーメンを注文した。ひとしきり各々の丼に向き合ってから改めてドリンクバーを取りに行き、改めて久しぶりの会話を楽しんだ。

 

AとMとは恋愛の話はまるでしなくて(なんだか小っ恥ずかしくて酔った時にだけぺろっと話す)、後から考えればよく思い出せないようなどうでもいい話をする。最近好きなラジオの話とか、パックのサイズが合わなくてどのパーツを少し破るかとか。ちなみにわたしは口が大きいので口角を引き裂きます。

 

そしてこの日、一番盛り上がったのは好きなせんべいの話だった。発端になったのは、野球好きのMの「大谷翔平に質問できるとしたら何のせんべいが好きか聞きたい」という発言だった。好きなせんべいにはその人の個性が現れるという話で、わたしとAは揃って黒豆せんべい、Mは白くて厚みのある塩せんべいだった(名称不明)。揃って好みが塩ベースだから気が合う、ということなのだろうか。

 

個人的には大谷翔平選手には雪の宿が好きと答えて欲しいところだが、本人に好きなせんべいは何かと聞いたら、爽やかな笑顔で「いや、食べないっすね〜」と答えそうな気がする。

 

駆け込み寺

AMコンビと解散し、今度は高校時代の部活の同期であるCと合流した。Cとは実家が近かったので、部活帰りは一緒に自転車で帰ることが多く、お互いの家の事情もよく知っていた。

 

わたしは今年の夏前に父親と絶縁することを決め、実家には帰れないし帰りたくもないので、この旅程を組んだ時は虚しさを感じながらも水戸駅近くのホテルを予約した。

 

九月の終わり、京都みなみ会館の閉館に間に合うようにCが関西に遊びに来た時、わたしの話を聞いたCは「次帰ってくる時はうちに泊まりなよ」と言ってくれていた。その言葉に甘えて、一度はホテルを予約したものの、キャンセルしてCの家に泊まらせてもらうことになった。聞けば、実家と折り合いの悪い別の友人も茨城に帰る時はCの家に泊まるのだという。まるで駆け込み寺のようだ。

 

Cの家に荷物を置くと、水戸の宮下銀座へ飲みに繰り出した。宮下というのは坂の上に水戸東照宮という神社があるからで、わたし自身も七五三や節分の豆まきに何度も参加した所縁のある神社である。

 

それと同時に、水戸東照宮は高校の部活の同期と一緒に、大学時代に初詣に来るお決まりの神社でもあった。毎年近くの安いホテルを人数分予約して、ひとつの部屋に集まってベッドでゴロゴロしながら年を越し、東照宮へと向かった。お参りをした後は、神社の裏手にある長い階段をグリコをしてぎゃあぎゃあ笑いながら降りた。

 

二十代半ばくらいまでは定期的に集まっていたが、それぞれ結婚したり転勤で引っ越したりと、全員が集まることは誰かの結婚式でもない限りなくなってしまった。

 

宮下銀座の居酒屋でお酒を飲みながら、Cと当時の話を懐かしんだ。今日はふたりしかいないけれど、じっくりお酒を飲みながら話が出来るのも良いなと思う。中にはもう疎遠になったメンバーも何人かいて、もうあの頃には戻れないけど大事な時間だったよねと話した。前日の睡眠不足のせいもあってか、涙腺がゆるくなり、話しながらカウンター席で何度も号泣した。その後、夜の水戸駅を後にして、駆け込み寺へと戻った。

文学フリマ、ホッピー通り、常磐線

これは先週末(11月11日)から、文学フリマに合わせて東京や地元の水戸、その他関東近辺を旅した際の記録です。

文学フリマ

初めての文学フリマへ。はてなブログが今年も文フリ本を出すというので、載るぞ!という意気込みで、早い段階で飛行機のチケットを取っていた。当日、関西空港発の飛行機で成田空港に降り立ち、国際展示場で行われたデザインフェスタに寄りつつ、流通センターへと向かう。途中、葛西あたりでゴルフの打ちっぱなし練習場が目に入り、オアシズ大久保さんがポッドキャストで話していたオリラジ藤森さんと遭遇したというゴルフ場はここか!と興奮を挟む。

 

はてなの文フリ本について、結果は残念、載ることはできなかったが、ずっと行ってみたかった文学フリマ。生の空気を感じてみたい!その地に足を踏み入れることがこの旅の目的のひとつでもある。流通センター駅につくともう人がすごい。

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そして会場に入ると人!人!人!。まずははてなブログのブースへ猪突猛進、無事に文フリ本やはてなのステッカーなどをゲットした。(スタッフの方にご挨拶できて嬉しかった…!)

蛍光灯の灯りと密閉空間にやられ、酸素を求めて屋外に出て息継ぎをした。

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会場マップでは見ていたけどまさかこんなに広いとは……完全に舐めていた。あまりにも熱気が凄すぎて、何かに似てるなあと思ったら、野球部が集っている時の高校のトレーニングルームみたいだった。あの建物の中だけ季節が違ったよ。アルファベットのブースは一通り回れたけど、ひらかなのブースは行きたかった所に最短距離で行っただけで全然回れなかった。文学が集まっているだけに情報量が多すぎる。次は息継ぎの時間も大幅に組み込んでゆっくり回りたいと思う。

 

ホッピー通り

その日の夕方から、高校時代の友人と共通の友人を誘ってホッピー通りで飲むことになっていた。田原町のホテルにチェックインして少しごろんとしたあと、支度をして集合場所の雷門へと徒歩で向かう。

およそ5年ぶりらいの再会。目の前に実体があることが嬉しくて、思わずハイタッチしてしまう。仲見世を通り、ホッピー通りへと向かう。

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ただわたしの好きな人たちを集めたので、初めましての友人らがぎこちなくならないといいな…と思ったが、注文した肉じゃががひんやりするくらいに話に花が咲いた。まるでわたしたち全員同じ高校に通っていたんじゃないか、青春時代を共に過ごしたのではないかという錯覚すら覚えた(一人だけ偏差値の高い別の高校に通っていたが、元はわたしたちの母校が第一志望だったらしい!直前で志望校のレベルあげるってどんだけ!)。

 

来年、地元の茨城県ロックインジャパンが数年ぶりに開催される。きっと自然と同窓会のようになるはずなので、皆が寄れるサイトを作ろうと目論んでいる。そしてこの日、早すぎる前夜祭として、ロッキン縛りカラオケを開催した。

盛り上がりに盛り上がり、もちろん終電で帰れるわけもなく、朝まで歌うことになった。三十路超えてからのカラオケオール、身体にモロにくる。いつでもまた会えそうな気がするけど、いつが最後になるか分からないしなあと思って、明け方のまだ暗い浅草の街で、ギャルピースをして集合写真を撮った。皆顔が疲労でいっぱいでしっかり明け方の三十代だった。

 

常磐線

翌朝、ホテルで5時間弱の睡眠をとり、身支度を整えて上野駅へと向かう。レイトチェックアウトのありがたさよ。

旅の目的地のひとつであるpensta CAFEにてカレーを食べ、写真を収めつつグッズを物色する。これ、東京人には当たり前の光景かもしれませんが、関西にはSuicaペンギンのSの字もないのです。ペンギンの代わりにカモノハシはいるけどね。それ故に、東日本に立ち寄るタイミングは、わたしの中でSuicaペンギングッズの収穫時期と言っても過言ではない。

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カレーを食べながら水戸へ帰る常磐線の時刻を調べる。次の電車まで相当余裕があるなあと思いながら、コーヒーをゆっくりすすった。だって、常磐線の鈍行列車は30分に一本しか走っていないのだから。

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大学生の時から前回の帰省までは、特別急いでいる時以外、東京駅の八重洲口から出ている高速バスでほとんど帰っていた。ツインチケットという往復チケットを買うと非常に安いのだ。でも、前回乗った時、自分の意思で降りたい時に降りられないもどかしさや、高速バス特有のあの窮屈なトイレに不安を覚えるようになり、今回から電車に切り替えることにした。

 

次の約束まで余裕があるので、茨城の街を眺めながらゆったり帰ることにした。しかし、常磐線といえど日曜日。さすがに座れるか心配だと思い発車の10分前くらいにホームに着く。ボックス席狙いで一番端に並ぶも、ぽつりぽつりと人が並んでいる(むしろ並ぶというのか)くらいで、結局余裕で座れた。ホッとはしたものの、こんなに常磐線って人が乗らないものなの?と憤りすら覚えるくらいだった。

 

それにしても寒い。寒すぎる。この週末、急に気温が下がって秋仕様の旅人は凍えるしかなかった。これだけ夏日が続いているのだから絶対に使い切らないだろうと思いながら多めに持ってきたホッカイロが想定外のペースで消費され、絶対など存在しないのだと改めて思った。

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つづく

 

煙草にまつわるエトセトラ

ある日、国道を走っていた時、信号が赤になり、隣にシルバーのワゴンRが止まった。少し斜め前に止まったその車の運転席からは煙が出ているのが見え、体を傾けて様子を伺うと老齢の男性がパイプをふかしているのが見えた。わたしはそのアンバランスさをとてつもなく粋だなあと思った。

 

 

憧れ。人はどういう時に憧れを感じるのだろう。

きっと自分では半永久的に手に届かないと悟った時、感じる感情なのだと思う。

 

 

煙草をものすごく吸いたい衝動に駆られることがある。今でこそ禁煙しているが、姉は一緒に住んでいた大学生の時から長い間煙草を吸っていたし、親しい友人のうちの何人かは煙草と親友だ。生き様がかっこよくて、わたしの憧れであった大叔母も喫煙者のひとりだった。デパートへ連れて行って貰い、その階段の前にあるベンチで足を組みながら一服する姿が様になっていた。

 

わたしは、友人に煙草をぷかぷか吸っていそうなイメージがあると言われるが、これまでにたったの一本も口に含んだことがない(シーシャはあるけどね)。なぜかと言うと、単純にビビりだからだ。肺がいかれるのもそうだし、ニコチン依存になるのも、あと結構お金がかかることもみんな怖い。一箱がチューハイくらいの値段だったら、もしかすると手を出しているかもしれない。吸っていそうで吸っていないというギャップもまた良いような気もするので、これからも吸うつもりはない。

 

わたしにとって煙草は、永遠に吸う日がこないからこそ、憧れのような対象であると言ってもいい。

 

煙草の絆

先週、Amazonプライムで『SWANSONG』という映画を観た。なぜそれを選んだかというと、「あなたの好きそうな作品」にピックアップされていたことと、白鳥はわたしにとって原風景の象徴のような特別な鳥だからだ。

 

『SWANSONG』は、ヘアメイクドレッサーとして一世を風靡した主人公が、過去に縁を切った元親友の死化粧を依頼されるところから物語が始まる。主人公は元々街の誰もが知る存在であったが、現在は老人ホームでひっそりと暮らしている。

 

彼はゲイで、同性のパートナーを若い頃にエイズで失っている。当時の一大顧客であった元親友のリタはパートナーであるデビットの死因がエイズだったことに衝撃を受け、彼の葬式に参加しなかった。そのことが主人公のパットとリタの間に大きな歪みを生み、縁を切ることになった。

 

劇中、パットが最愛のデビットのお墓を訪れるシーンがある。墓に向かう途中、パットは周りの客に馬鹿にされながらも時代遅れの銘柄の煙草を何カートンも買う。墓地に辿り着くと、パットは二本の煙草に火をつけ、一本を墓石の上に置く。そのシーンがあまりにも美しくて切なかった。アップになった煙草の灰がふっと落ちるシーンは、映画館で観なかったことを後悔させた。

 

わたしは煙草を吸わないが、もし喫煙者であったなら、こんなふうに煙草で誰かと深く繋がることができたのだろうか。

 

 

その他にも、煙草を吸うシーンが大好きな作品がある『anone』というドラマだ。今は使われていない薄暗い印刷所で、亜乃音と青羽がふたりで煙草を吸うシーンがある。ふたりは元々は赤の他人同士だったが、紙幣を偽造するという罪で繋がっている。天窓から差し込む光に照らされる煙が美しく、その煙にも何か絆のようなのようなものを感じてしまう。

 

このシーンに重なる出来事がわたしの人生にもあった。昨年、父方の祖母が亡くなった際、孫連中の中でわたしだけがたまたま予定が空いており、祖父母の住んでいた山奥の家まで行くことになった。叔母二人にピーチクパーチク言われながら、久しぶりに姪っ子として扱われるのも悪い気分ではなかった。

 

父や叔父、わたしの夫を含めて居間でひとしきり飲んだあと、五畳ほどの台所に皿を運び、横開きの扉をぴしゃんと閉めると、女だけの秘密の会合がはじまる。外はもう真っ暗で、台所を照らしているのはシンクを照らす蛍光灯だけだ。

 

わたしが皿洗いをしていると、叔母がふたりともおもむろに煙草を取り出し、コンロの火で慣れた手つきで火をつけて吸い始めた(叔母2は夫に内緒でたまに吸っているのだという)。一日、葬儀の準備やら家の掃除やらでヘトヘトで、身なりも整っているとは言えないのに、何故かわたしにはそれが美しいワンシーンのように思え、忘れられない光景のひとつになった。

 

 

こうしてみると、どうやらわたしは中年を過ぎた大人たちが煙草をふかしている景色が好きらしい。永遠に吸わないと言っておきながら、中年を過ぎたころに突然喫煙者になっていたら少し笑える。

 

※このブログに喫煙を推奨する意図はございません。

人生はログインボーナス

 

携帯のアプリゲームをやっている。ラランドのサーヤさんがYouTubeで紹介していたゲーム会社のもので、ひたすら飛行機内で乗客に機内食を配膳していくという狂ったようなゲームだ。

 

世界各国の航空会社が舞台になっており、機内のデザインがリアルに再現されていたり、各国の伝統料理が機内食として取り込まれているので、文化を知る点でも面白く(飲み物も伝統的なものだったりする!)、美味しそうなものは食べるのも見るのも両方好きなので、気付いたらあっという間にハマっていた。

 

機内食を作る機械や料理のグレードは、コインと宝石でアップグレードすることができる。機械をアップグレードすれば提供速度は早くなり、客の満足度は上がる。また、料理をアップグレードすれば、客単価が上がるので、グッとレベルのクリアに近付く。

 

ただここで問題なのが、コインは案外簡単に増やせるが、宝石は貰える機会が限られているということだ。タスクが設けられていたり、一つの国のレベルを全てクリアするとボーナスとして大量に貰えたりするが、なかなかそれが地道である。それが運営の魂胆だとは分かっていても、時たま数百円課金したくなる衝動に駆られる。

 

ただし、タスク以外にもそれらが貰える方法がある。毎月一日に更新されるログインボーナスだ。カレンダーのマークをタップすると、一日毎に運営が今日もログインしてくれてありがとう!のギフトをくれるのだ。

月の初めはコイン数百枚とか、宝石一粒とかなのだが、月末になるにつれコインが数千枚貰えたり、宝石が2個や3個に増えたりとどんどん豪華になっていく。

 

 

先月、毎日コツコツとログインボーナスを貯めていたにもかかわらず、月末に予定が数日立て込んだことがあり、うっかりログインボーナスを貰うのを2日連続で忘れてしまった。あと2日、ログインさえしていれば、特別なボーナスが貰えているはずだったのに!わたしはクッソーとベッドの上で早朝に叫んだ。

 

ああ、人生も同じだ、とその時わたしは悟る。

ふと、皇室の方が結婚されたときのニュースを思い出した。その頃、どのチャンネルを回しても、お相手の方のインタビューが連日放送されていた。皇室関係のご結婚相手に座右の銘を聞くのは必須なのか知らないが、その方は「日進月歩」と答えていた。

 

THE 庶民なわたしからすれば、とてつもなく素晴らしい経歴に見えるその人が選んだ言葉としては少し意外な印象だったのを覚えている。テレビの画面を通じてその人の人となりすべてを理解することは不可能だが、座右の銘だけでなく所作や口調からも誠実な人柄が伺えた。

 

毎日過ごしていると、なんでこんなことをしているんだろう、こんなこと続けて何になるんだろうと思う日は誰にでもあると思う。今日はツイてなかった。仕事でミスをしてしまったとか。泣きながら帰る日とか。

でもそれをめげずに続けていると、ある時突然大きなギフトが届く日がある。絶対ではないけど。

 

それでも多分、そのギフトが届いたのは単なる偶然ではなくて、毎日腐らずにログインボーナスをコツコツ貰い続けたからなのだと思う。

 

この世で大事にされるのは悲しいことに結果ばかりだが、結果が出るまでには地道な継続があるのだと、なぜかわたしはこのログインボーナスによって改めて実感することになった。今月は必ず、月末に大きなギフトを貰うとここに宣言する。

 

いつか、辞書で「日進月歩」と検索したら、ログインボーナスが類義語として並んでいる日も来るかもしれない。

自己責任論

「自分の機嫌は自分でとる」とか「自助」とか、いつからか自己責任論的な話が増えてきたように思う。

社会全体が集団よりも個人主義的になってきたことはいいことだと思う。特に、元々同調圧力が強い日本では生きやすくなった人が多くなったかもしれない。わたしも、集団行動が苦手なので、その風潮はむしろありがたいと思う。

 

もちろん、自分で自分のことをやる。それがすべてうまく行くのならそれで良いと思う。でも、あまりにも自分の努力次第でどうとでもなるというイメージが加速しすぎている気がする。

映え写真を撮りたいがためにナイアガラの滝から落ちたとか、応援するチームが優勝してテンションが上がり道頓堀に飛び込んで死んだ……とかなら自己責任として扱われても仕方がないと思う。なぜならそれらは自分の意志でふせぎようのある出来事だからだ。

でも、自分の力ではどうにもならない外的要因によって人生はかなり左右されると思う。

 

「自分で自分の機嫌をとる」。いまでは格言のように扱われるようになった言葉だ。一見綺麗な言葉に見える。この言葉の発端になった芸能人の方をわたしは好印象に思っているし、努力の人だと思っているので、その人自体を否定するつもりはない。それに、実際に自分で自分の機嫌を取ことができる人は素晴らしいと思う。

 

でもわたしは、この言葉とこの言葉がもてはやされている風潮が恐ろしいなと思う。自分で機嫌を取れない原因が自分の外にあったとしても、それは全て自己責任で、「努力が足りない」「自己管理ができない」人だというレッテルを貼ることで終わらせられてしまう気がするのだ。

 

 

わたしは子供の頃、惨めで悔しい思いをたくさんしてきた。貴重な時間を犠牲にして、生きるために人が遊んでいる時間も働いたりしてきたりもした。あれがしたいこれがしたい、当時はやりたいことも夢もたくさんあった。でも同時に諦めなければいけなり理由もそれ以上にあり、そのほとんどはいつかやろうと棚に置いたまま埃を被ってしまった。

 

特に子供時代は、生まれた環境に左右されてしまう。

わたしの通っていた小学校の学区は、その地域の中でも一番地価が高く、高所得者の子供が多く通っていた。実際、親が医者という人も何人かいたし、銀行員の子供も多かった。友人のほとんどが私服にブランドものを着ているなか、わたしはいとこの名前が洋服のタグに書かれたよれよれのお下がりを着ていた。

 

わたしの親は「娯楽はすべて悪」と考えていたので、小型のゲーム機でさえ一台も買ってもらえなかったし、洋服代も美容室代も自分の小遣いでやりくりするしかなかった(初めて美容室に行ったのは中学生だった)。友人にディズニーに誘われても一銭も出して貰えないので、わたしは興味がないとアピールして、誘われない努力をしていた。嫌味もたくさん言われたし、子供ながらに惨めで虚しい思いをたくさん経験した。

 

小学校を卒業して、新居のある学区内の中学校に転入すると、打って変わって同級生には低所得者層の親を持つ子が多かった。住んでいる家は、小学校の友人らのそれとは明らかに違っていた。教室の雰囲気も小学校の時とはまるで違っていて、荒れている子が多かった。でもある意味その校風の方がわたしにとっては過ごしやすくて、やんちゃな子達と気が合うことも多かった。

 

中学校の同級生が、二十歳前後の頃に「まともな教育を受けられなかったから俺は教師にはなれない。親のせいだ」とSNS上に嘆いていたのを覚えている。

 

確かに、いくら親が低所得であろうが、自分で調べれば良い制度を見つけられるかもしれないし、信頼できる大人がアドバイスをくれるかもしれない。でもそれはある種運だと思う。わたしの家に彼が産まれていたならば、先生になるための教育を存分に受けられはずだから、どうしてこうもパズルは上手くいかないのだろうと思った。その点では自分は明らかに彼よりも恵まれているというのに、自分がこの人生から逃げ出したいと思っているのが恥ずかしくて、その事実はよりわたしを苦しめた。

 

まだ無知だった大学生の頃、学校とバイトで精一杯でやりたいことが出来ないと当時仲の良かった友人に現実を嘆いたことがある。わたしも若かったので、安易に同情や励ましを求めたのだ。でも返ってきたのは「自分の努力が足りないんじゃない?」という言葉だった。

 

努力。努力すればなんでもできる。

本当になんでもできるのだろうか。

わたしは努力が足りないのだろうか?

 

でもわたしはその言葉をすんなりとは受け入れられなかった。わたしは家賃も学費も自分で払わなければならない。ちょっと良いSUVが買えるくらいの多額の奨学金を借りながらも、それだけでは家賃や食費を払えないから、昼休みに図書館で昼寝をして、それ以外はほとんど働いた。一度、学費が8万円くらい足りなかったことがあり、クレジットカードでリボ払いでキャッシングをした。それ以外に方法がなかった。その返済にも怯えながらバイトを増やすしかない。火の車だった。お金が足りないことが怖くて眠れなかったし痔にもなった。

 

一方で、その言葉をわたしに投げかけてきた人は、1年ぐらい留学に行っていたし、渋谷から3駅のところにある、駅徒歩1分の学生マンションに住んでいた。わたしは必死に貯めたお金で同じ旅行に行ったが、彼女は旅費を親に肩代わりしてもらい、返す返すと言いながら、「払ってあげるから次のテストを頑張ってね」と母親に言われたからと結局チャラにしてもらっていた。それを平気で言える神経もわたしには理解ができなかった。

 

いまあんたがいる状況は全部身の回りの人が作ってくれているんじゃないか。それをまるで自分が努力してきたかのように言うなよ、ふざけんなと正直思った。

 

これまで三十年生きてきて、恵まれた環境にいる人ほど自己責任論をぶつけてくる気がしている。すべてを自分の努力の結果だと思いたいのだろうな、とわたしには思える。不思議なことに、自分ではどうしようもできない理由で何かを諦めてきた人に、わたしはそんなことを一度も言われたことがない。

 

これからを生きる子供が、すべてを努力で解決しなければいけない世の中にならないで欲しい。せめて、どうしようもない理由で何かを諦めることになっても、それはあなたのせいじゃないとわたしは言ってあげたいし、自分の努力不足のせいだと思わなくて済む世の中であって欲しいと強く願っている。

教師で反面教師な父親のこと

前々回のブログを書いた直後、父親から一行だけのメールが届いた。それを読んで、わたしはとうとう父親と縁を切ることを決意した。

このブログで、ずっと父親の本質と父娘の関係については触れてきていなかったように思う。先の記事でわたしにとってはブログは排泄だと書いたが、本当にわたしが一番外に排出したかったのはこの父親のことだ。でも向き合うのが怖くて書けなかった。長い時間がかったが、ようやく心の準備ができた。

 

金曜日の夜、スーパーで親子三人で買い物している家族を見かけた時、幻を見ているようだった。みんなにこやかでリラックスしていて穏やかだった。わたしたち家族には長いことそんな時間は流れていない。わたしには額に深いシワの刻まれた父の顔や窓を割りそうな怒号ばかりしか浮かばない。

 

毒親という言葉がメジャーになったのはいつ頃だろう。父親から感じる邪悪さは一体何に分類されるのだろうと長年苦しんでいたわたしにとっては心が軽くなる言葉だった。やっとモヤモヤを表す言葉が出来て嬉しかった。まさにわたしの父親は正真正銘の毒親だと胸を張って言える。

 

Youtubeでとある芸人さんが家族に関して「話せばなんとなかなるで済まされる話が多すぎる」という話をしていた。よく言ってくれたと思った。その人はネグレクトのような家庭で育った人だった。話せば理解し合える家族もいれば、そうではない家族もいる。

 

どうしてここまでこれまで身をすり減らしてまで父親と向き合ってきたのかというと、どこかで話せばなんとかなるという一縷の希望をわたしが捨てきれていなかったからだ。でも、もう諦めることにした。

 

父親の裏の顔と表の顔

父親は暴力を振るう人だった。主に精神的な暴力だったが、時には物理的に手を出してくることもあった。わたしがまだ小学校に上がる前の記憶では、姉に手をあげていた。姉の首根っこを掴んでぶんぶんと左右に振り回し、母は「お姉ちゃんが死んじゃうからやめて」と泣きながら叫んだ。今思えば「この人に逆らったら死んでしまうかもしれない」という恐怖を植え付けられた瞬間だったのかもしれない。高校時代には、家の中を追い回された挙句に階段から突き落とされた。当時は俊敏で運動神経もそれなりによかったので無傷で済んだが、もしもあの時、仮に命に支障が出ていたら父の悪事が公にできたのかなとも思う。

 

そんな父は教師だった。高校の国語科の教員。祖母も教師だったので二代目ということになる。父は家から一歩外に出ると、人格者というお面をつけて歩いた。生徒からも買い物に行った先でも「先生!先生!」と呼ばれ、持ち上げられた。まるで自分だけは一段上に立っているかのように勘違いしているような振る舞いだった。家ではわたしたちを嘲笑って、蔑んで、人格を否定して、心をズタボロに引き裂いているというのに、外では聖人のように扱われているのが許せなかった。

 

教育の段階が進んでいくにつれ、精神的な暴力はエスカレートしていった。わたしや姉の考えはことごとく否定され、嘲笑われた。わたしたちがやりたいと言うことを応援してくれることはなかったし、褒めてくれることもなかった。普段は口数の少ない人間だったが、酒を飲むと気が大きくなるのか階段をドンドンと音を立てて登ってきて、「ちょっと来なさい」と号令がかかると説教が始まる。

 

いつも正しいのは父親。俺の言うことを聞けばいい。わたしたちが父の意見に大人しく従っていると父はみるみる機嫌が良くなり、わたしたちを褒めた。成績が悪ければ、居間に正座させられ、父はお酒を飲みながら深夜に延々と説教をした。「お前は本当に鳴かず飛ばずだよな」と口癖のように呆れた顔をしてため息とともに言った。ブラック企業の上司がやっていることとなんら変わりないと思う。

 

高校に入学する時、父はわたしにテニス部に入って欲しがった。父がテニスに関連のある人間だったからだ。興味がなかったわたしは中学時代に入りたかった陸上部に入った。それが気に入らなかったのか、父はわたしに「そんなことに費やす時間があったら勉強しろ」と3年間文句を言い続けた。携帯は二年になっからようやく許可されたが、定期テストで学年で20番以内に入らなければ没収という条件付きだった。高二の時、学力で言えばトップ集団とも言える人たちと張り合っていて、関東の国立大学を志望校にしていたが、父親に馬鹿にされ、心が折れてしまった。父はわたしに自分と同じように教師になることを求めた。進学先は教員免許を取ることを条件に選ぶように指示し、わたしの志望校に赤いサインペンで採点するようにバツを付けた。

 

わたしがわたしである必要なんてないじゃないか。ただ自分の理想の型にはめて育てたいだけじゃないか。自分が着ぐるみで、どこかに脱ぎ捨てて逃げれたらいいのに。誰かが身代わりになってくれたらいいのにと祈って眠ったが、いつ目覚めても自分のままだった。

 

ありがたいことに、学校には友人もいたし教師にも恵まれた。好きに泣ける場所もあったし、話を否定せずに最後まで聞いてくれる大人もいた。図書室では自分の知らない世界があることを本が教えてくれた。わたしを褒めてくれる人や認めてくれる人が外には沢山いて、なんとか乗り切ることができたが、それがなかったらどうしていただろうと想像すると恐ろしくなる。もし何かが欠けていたら、多分自分か父親のことを殺していた。

 

家族を愛で片付けるな

家族というテーマになるとすべて「愛」で片付けようとする人がいる。父親にこんなことを言われたと言ったら、愛しているから言っているんだよ、と返されたことが何度もある。そんな綺麗な言葉でひとまとめにしようとしないでくれと思う。

 

たとえそれが愛だとしても、父はわたしを愛していたのではなく、わたしという鏡に映った自分のことを愛していたのだと思う。

 

自分にこの醜い人間の血が流れていることは自分にとって耐え難いことだった。自分は生まれながらに欠陥品のように感じたし、100%自分を好きになれることはないのだと思うと絶望した。手首をかっぴらいて全ての血を抜き切ってしまいたいと思う日もいまだにある。

 

 

そんな最低な父親とどうしてこれまで縁を切らなかったのかといえば、母や祖母の存在がわたしを支えていたからだった。父親との仲は冷え切っていたが、家族のあたたかさというものを母の実の家族である伯父や祖父母が与えてくれた。父親と縁を切れば、葬式にも呼んでもらえない(実際に勘当された姉は呼ばれなかった)。それだけは何としても避けたかった。

 

そして昨年、祖母が亡くなり、わたしの心の大きな支えを失うとともに、父親と関わりを続ける理由もひとつなくなった。父方の祖母と立て続けに亡くなったことで、二ヶ月おきのペースで父親と顔を合わさなくてはいけないのは憂鬱で苦痛で仕方がなかった。

 

それでもこれは祖母たちや母のためだと思って歯を食いしばって耐えたが、父親といる空気を致死量分摂取してしまった。薬を貰いカウンセリングに通っても、もう無理だった。

 

父方の祖母の一周忌が近づいて来たが、どうしても行く気になれなかったし、関西の自宅から甲信越地方にある山奥の祖母の家までの道のりは、正直一周忌には行かなくてもいい距離だと思って行けない理由を考えた。

 

わたしは父に、「文鳥の調子が悪くて家を空けられないので参加できません」とメールを入れた。実際に、一羽の文鳥の換羽が上手く進んでおらず、毎日薬をあげなければいけなかった。他にも色んな理由は浮かんだが、体調不良だというと「自己管理ができていない」と返ってくるし、忙しいと答えると「何ヶ月も前に日程を伝えていたのになぜ空けられないんだ」と返ってくるのが目に見えていたからだ。

 

既読になってからしばらく音沙汰がなく、数日後にようやく返って来たのがこの一文だった。

 

「多頭崩壊!」

 

この時、やかんが沸騰するように体全体に怒りが湧き上がった。文鳥を多頭飼いしていることを知っている父は、わたしにその管理の出来なさを責めるためにこの一文を送って来たのだった。たった一行の中に、これまでの父親の行動がすべて詰まっていた。それまでは上手く頭の中で記憶を誤魔化すようにしていたが、そのメールでこれまで父親にされて来た嫌なことの数々を思い出した。日も沈み真っ暗な緑地公園で、焚き火をしながらわんわんと泣いた。ああ疲れた。もう嫌だ。できることなら殺してやりたいと思った。

 

父親の名前の文字列を見るのももういやだった。本当はメールごとフォルダから消してしまいたかったが、いざという時のために証拠を失うわけにはいかないので、その場で父親の名前を「クソ親父」に変更し、着信拒否にした。姉と母には、メールのスクリーンショットとともに一連の流れを報告して、母にはもう「あの人には死んでもらってかまいません」と付け加えた。大好きな祖母の一周忌にも行かないし、実家にも帰らないと宣言した。

 

自分に長いこと刺さっていた長い棘がようやく抜けたような気がした。棘が抜けたあと、皮膚から血がでるみたいに、メールが来てしばらくは今までの疲れがどっと出てしんどい日々が続いた。それももうかさぶたになり、治りつつある。こらからはもう少し気楽に生きられるような気がする。