自己責任論

「自分の機嫌は自分でとる」とか「自助」とか、いつからか自己責任論的な話が増えてきたように思う。

社会全体が集団よりも個人主義的になってきたことはいいことだと思う。特に、元々同調圧力が強い日本では生きやすくなった人が多くなったかもしれない。わたしも、集団行動が苦手なので、その風潮はむしろありがたいと思う。

 

もちろん、自分で自分のことをやる。それがすべてうまく行くのならそれで良いと思う。でも、あまりにも自分の努力次第でどうとでもなるというイメージが加速しすぎている気がする。

映え写真を撮りたいがためにナイアガラの滝から落ちたとか、応援するチームが優勝してテンションが上がり道頓堀に飛び込んで死んだ……とかなら自己責任として扱われても仕方がないと思う。なぜならそれらは自分の意志でふせぎようのある出来事だからだ。

でも、自分の力ではどうにもならない外的要因によって人生はかなり左右されると思う。

 

「自分で自分の機嫌をとる」。いまでは格言のように扱われるようになった言葉だ。一見綺麗な言葉に見える。この言葉の発端になった芸能人の方をわたしは好印象に思っているし、努力の人だと思っているので、その人自体を否定するつもりはない。それに、実際に自分で自分の機嫌を取ことができる人は素晴らしいと思う。

 

でもわたしは、この言葉とこの言葉がもてはやされている風潮が恐ろしいなと思う。自分で機嫌を取れない原因が自分の外にあったとしても、それは全て自己責任で、「努力が足りない」「自己管理ができない」人だというレッテルを貼ることで終わらせられてしまう気がするのだ。

 

 

わたしは子供の頃、惨めで悔しい思いをたくさんしてきた。貴重な時間を犠牲にして、生きるために人が遊んでいる時間も働いたりしてきたりもした。あれがしたいこれがしたい、当時はやりたいことも夢もたくさんあった。でも同時に諦めなければいけなり理由もそれ以上にあり、そのほとんどはいつかやろうと棚に置いたまま埃を被ってしまった。

 

特に子供時代は、生まれた環境に左右されてしまう。

わたしの通っていた小学校の学区は、その地域の中でも一番地価が高く、高所得者の子供が多く通っていた。実際、親が医者という人も何人かいたし、銀行員の子供も多かった。友人のほとんどが私服にブランドものを着ているなか、わたしはいとこの名前が洋服のタグに書かれたよれよれのお下がりを着ていた。

 

わたしの親は「娯楽はすべて悪」と考えていたので、小型のゲーム機でさえ一台も買ってもらえなかったし、洋服代も美容室代も自分の小遣いでやりくりするしかなかった(初めて美容室に行ったのは中学生だった)。友人にディズニーに誘われても一銭も出して貰えないので、わたしは興味がないとアピールして、誘われない努力をしていた。嫌味もたくさん言われたし、子供ながらに惨めで虚しい思いをたくさん経験した。

 

小学校を卒業して、新居のある学区内の中学校に転入すると、打って変わって同級生には低所得者層の親を持つ子が多かった。住んでいる家は、小学校の友人らのそれとは明らかに違っていた。教室の雰囲気も小学校の時とはまるで違っていて、荒れている子が多かった。でもある意味その校風の方がわたしにとっては過ごしやすくて、やんちゃな子達と気が合うことも多かった。

 

中学校の同級生が、二十歳前後の頃に「まともな教育を受けられなかったから俺は教師にはなれない。親のせいだ」とSNS上に嘆いていたのを覚えている。

 

確かに、いくら親が低所得であろうが、自分で調べれば良い制度を見つけられるかもしれないし、信頼できる大人がアドバイスをくれるかもしれない。でもそれはある種運だと思う。わたしの家に彼が産まれていたならば、先生になるための教育を存分に受けられはずだから、どうしてこうもパズルは上手くいかないのだろうと思った。その点では自分は明らかに彼よりも恵まれているというのに、自分がこの人生から逃げ出したいと思っているのが恥ずかしくて、その事実はよりわたしを苦しめた。

 

まだ無知だった大学生の頃、学校とバイトで精一杯でやりたいことが出来ないと当時仲の良かった友人に現実を嘆いたことがある。わたしも若かったので、安易に同情や励ましを求めたのだ。でも返ってきたのは「自分の努力が足りないんじゃない?」という言葉だった。

 

努力。努力すればなんでもできる。

本当になんでもできるのだろうか。

わたしは努力が足りないのだろうか?

 

でもわたしはその言葉をすんなりとは受け入れられなかった。わたしは家賃も学費も自分で払わなければならない。ちょっと良いSUVが買えるくらいの多額の奨学金を借りながらも、それだけでは家賃や食費を払えないから、昼休みに図書館で昼寝をして、それ以外はほとんど働いた。一度、学費が8万円くらい足りなかったことがあり、クレジットカードでリボ払いでキャッシングをした。それ以外に方法がなかった。その返済にも怯えながらバイトを増やすしかない。火の車だった。お金が足りないことが怖くて眠れなかったし痔にもなった。

 

一方で、その言葉をわたしに投げかけてきた人は、1年ぐらい留学に行っていたし、渋谷から3駅のところにある、駅徒歩1分の学生マンションに住んでいた。わたしは必死に貯めたお金で同じ旅行に行ったが、彼女は旅費を親に肩代わりしてもらい、返す返すと言いながら、「払ってあげるから次のテストを頑張ってね」と母親に言われたからと結局チャラにしてもらっていた。それを平気で言える神経もわたしには理解ができなかった。

 

いまあんたがいる状況は全部身の回りの人が作ってくれているんじゃないか。それをまるで自分が努力してきたかのように言うなよ、ふざけんなと正直思った。

 

これまで三十年生きてきて、恵まれた環境にいる人ほど自己責任論をぶつけてくる気がしている。すべてを自分の努力の結果だと思いたいのだろうな、とわたしには思える。不思議なことに、自分ではどうしようもできない理由で何かを諦めてきた人に、わたしはそんなことを一度も言われたことがない。

 

これからを生きる子供が、すべてを努力で解決しなければいけない世の中にならないで欲しい。せめて、どうしようもない理由で何かを諦めることになっても、それはあなたのせいじゃないとわたしは言ってあげたいし、自分の努力不足のせいだと思わなくて済む世の中であって欲しいと強く願っている。