舞鶴、伯父が働いていた街。

舞鶴。京都の北の端にある、日本海に面した海の街。

直接的な関わりはないが、関東で生まれ育ったわたしにも所縁のある街だ。

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わたしの伯父は、およそ4年前に突然死んだ。

仕事帰りに母親から滅多にこないEメールが入っていたので開封したら、そこには伯父が亡くなったこと、通夜と告別式の時間などが淡々と記されていた。

 

故人の話をすることには賛否両論ある。以前は有名人の訃報に反応してお悔やみを述べる人の気持ちがわからなかったが、いつからか、お悔みを述べることも弔いの一種だと思うようになった。だって、亡くなってしまったら誰がその人の話をするのだろう。芸能人や著名人、織田信長徳川家康などの戦国武将は多くの人の話題にこれからものぼるだろう。それでも、毎日粛々と生きてきた庶民には友人や親族以外に思い出を語る人がいない。そこに確かにその人の人生があったことが、いつの間にか過ぎ去っては消えていく。

 

伯父の話を語る人間はもうかなり数少ない。大伯母も祖父もそうだ。外人のボーイフレンドが居て女優にもスカウトされたが、両親や兄の息子の面倒を見るために働き詰めで未婚を貫き、わたしたち家族との同居も断り、生前献体を申し込んでいた大伯母。姉とわたしにピアノを買ってくれたのは大伯母だ。小学生の時に亡くなった祖父はカメラマンだった。部屋が傾くほどに大量に保存されていたアルバムは、限られたものを遺して知らずのうちに処分されていた。祖父の撮った写真が地元の小学校や寺院に飾られていることは、わたしの誇りだ。ふたりの共通点である「自分の利益よりも人のことを優先する生き方」は自分の指針でもある。

 

伯父の死を、必要以上に美化するつもりはないが、遺したものが年老いた祖母と幾らかの借金、段ボールいっぱいに詰まったAVなのはあまりにも報われない。人の記憶から忘れ去られた時、その人にとって「本当の死」が訪れるという。でも、まだ伯父には記憶の中では死んでほしくない。だから、伯父が生きていた証をわたしが残すことにした。

 

家族写真と一通の茶封筒

突然の訃報のあと、初めて伯父の生活していた部屋に入った。生涯独身だった伯父は、祖父が死んでしまってからは二階建ての小さな借家に祖母と二人暮らしだった。部屋の片隅には、わたしと姉がまだ小さい頃に祖父母や大伯母、伯父、両親と私たち姉妹で行くのが恒例だった焼肉屋の前で撮影した記念写真が画鋲で無造作に貼られていた。わたしたち姉妹の手には、お子様ランチのおまけなのだろう、シャボン玉が握られている。

 

祖母と伯父の住む家は実家からほど近くにあり、月に一度、市場へ魚を買いに行くと、帰り道にお刺身を届けに行くのが恒例だった。伯父はいつも、夏は白のタンクトップ姿、冬は青いチェックの半纏を羽織って、奥の離れから「いらっしゃい」と笑顔で出てきた。毎週末、だいたい笑点のやっている頃には必ず伯父が家に来て、記事のスクラップを日課としていた父に渡すための新聞や、スーパーで買って来てくれた旬の果物を届けてくれた。臨時収入があったのだろうか、一年に数回は、ごっそりと箱いっぱいに詰まった色とりどりのケーキを届けてくれることもあった。わたしと姉は、まるで娘のように可愛がって貰った。勤め先の就業規則では、忌引休暇は2親等までだと定められており、伯父の葬儀のためには有給を取るしかなかったのがもどかしかった。

 

 

伯父はかつて海上自衛隊の隊員で、最後に赴任していたのが舞鶴駐屯地だった。

でもわたしは、海軍だった頃の伯父のことを知らない。パソコンデスクの上に置いてあったガラスのフレームの中の写真には、大きな護衛船を背に制服姿で爽やかに佇む若かりし伯父の姿が映っていた。いま伯父が海上自衛隊だった痕跡を感じられるのは、この写真と、遺影の隣に置いてある海軍の白い帽子だけだ。わたしが物心つく頃には、伯父はとっくに自衛隊を辞めており、IT関連の会社に勤めては、頻繁に転職を繰り返していた。会社に改善点をまとめて提出しては揉めていたらしく、組織の中では厄介な人間扱いされていたのだろう。祖母から伯父が転職した話を聞く度に、母は決まって「だからおじちゃんは自衛隊に居ればよかったのに」と言うのだった。伯父は、海上自衛隊を辞めた理由を「船酔いをするようになっちゃったんだ」と笑って話していた。

  

 住人が祖母だけになった借家は解約され、祖母は実家に住まうことになった。人手が足りないので、わたしも週末に度々帰省しては遺品整理を手伝った。小さな借家のなかには、伯父の遺品に加えて、10年以上も前に亡くなった祖父、伯父が最後の世話をしていた大伯母の遺品も残っており、骨の折れる作業が続いた。伯父の部屋の本棚には専門書が並び、物置にもたくさんの参考書やノートがあり、勉強熱心だったことが伺えた。

 

 

 伯父の部屋をいよいよ空っぽにするぞと意気込んだ日、押入れの中から特に大事にしていたであろうものたち、証明写真や書類、手紙や日記の端切れなどが出てきた。

 

おもわず身震いしてしまったことは、ルーズリーフに殴り書きされた日記に「交通事故には気をつけること!」と大きく書いてあったことだった。伯父は交通事故で亡くなったのだ。かなり大規模な事故だったために、マスコミが取材を申し込んできたり、ネット上にはスレッドが立てられ、当人の名前も顔も知らない、全く関係のない人間たちが好き勝手に書き込みをして盛り上がっていた。「腸が煮えくり返る」とはこういうことを言うのかと思った。下手に身内だと名乗ることもできずに、反論も出来ないのが余計に腹立たしかった。テレビやネットで流れてくる災害や事件・事故のニュースは他人事のように思えてしまうけれど、いつ自分や家族が当事者になってもおかしくないことを教えてもらった。不幸中の幸いか、体に大きな損傷はなかったが、顔にできた内出血を隠すために、わたしの成人式の化粧よりもはるかに厚塗りになっていた伯父は妙に小綺麗で、半纏やタンクトップを着て現れた頃の面影が薄れていたのが悲しかった。

 

 

なかには茶封筒もあった。祖父の遺品整理のときに見つけて、取っておいたのかもしれない。それは伯父が自分の父親(祖父)にあてた手紙で、手術をしたこと、それがきっかけで海軍を辞することになったこと、母親(祖母)のことが気がかりで地元に帰る決意をしたことなどが書いてあった。隣で作業をしていた母に手紙を渡すと、「そんなの聞いてない」と涙ぐみながら小さく怒っていた。伯父が海軍を辞めたのには、船酔いよりももっと抜き差しならない理由があったのだ。県内でも一番優秀な高校に進学し、海軍に入隊して順調にキャリアを築き上げた伯父は、ある時期まではまさに順風満帆な人生だったはずだ。自分の意思に反して、それが一瞬で壊れていく可能性はおおいにあるのだと思う。

 

両親は葬式の費用が賄えるか心配していたけれど、伯父の葬儀には思っていたよりも多くの人が参列していた。近々開催する同窓会のために、幹事として数週間前に打ち合わせをしていたのも大きかったのかもしれない。高校時代、頭が良く、スリムで美形だった伯父にはかなりのファンがいたらしく、当時のファンだったという謎の女の人の姿もあり、母は怪訝そうな顔をしていた。訃報の連絡から終始冷静で、淡々と手続きを進めていた母が、喪主の挨拶になった途端に言葉を詰まらせて泣き崩れてしまったこと、親族席の先頭で車海老のように肩を丸めて座る祖母の後ろ姿は、これから何年経っても忘れられないし、忘れてはいけない光景だと思う。

 

伯父の痕跡を模索する旅

 舞鶴を訪れるのはこれで二度目になる。一度目は、夕方に思い立ってドライブに来た。日が沈んだあとで、街並みを自分の目に収めることができなかった。舞鶴港に停泊中の日本海フェリーを眺め、お寿司が食べたくなったけれど時間的に地元の寿司屋がことごとく開いていなかったので、スシローで回る寿司を食べて銭湯に寄って帰った。

 

今回は、昼に福井県の小浜港で海鮮丼を食べ、16時頃に舞鶴に着いた。

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海軍基地と舞鶴市役所の間に位置する舞鶴赤れんがパークに行く。1号棟から5号棟はそれぞれ、イベントホールや博物館になっていたり、記念館やお土産ショップとして活用されていた。1枚目の写真は、3号棟のまいづる智恵蔵のなかにあった国鉄舞鶴線ジオラマだ。棟の脇には石碑が建っていて、旧海軍が当時その倉庫をどのような用途に使っていたのかがわかる。17時を前にして舞鶴港に沿いに出てみたら、ちょうど奥の護衛船に明かりが灯ったのが見えた。右手の目前に停泊していた艦船の甲板には数名の隊員が立ち並び、舞鶴港にはラッパの音が響き渡っていた。

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 商店街のアーケードと喫茶店、寿司屋、銭湯

舞鶴港から西に15分ほど車を走らせると西舞鶴に着く。そこには、西舞鶴駅から北西に伸びるマナイ商店街がある。伯父が隊員の時、この辺りでも遊んだのだろうか。寂れてしまったアーケードの中でぽつんと光る看板に吸い寄せられるようにして、喫茶モナミに入った。

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メルヘンな外観

夫と変わりばんこで運転していたとはいえ、かなり疲労が溜まってきていた。

いつもコーヒーはブラックで飲むと決めているが、この日は疲労のせいか珍しく体が甘さを欲していて、ミルクもお砂糖も入れたほんのり甘いコーヒーを飲んだ。コーヒーカップとソーサーがシンプルなのがまた良い。

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店主に「店内の写真をお撮りしても良いですか?」と尋ねたら、聞きなれない関東弁のトーンに戸惑われたのか、何度か聞き返されたのちに、ほころんだ顔で「こんなところで良ければ……」と言ってくださった。主張が激しくなく、ひっそりと佇んでいるこのお店の雰囲気が滲み出ている気がした。

 

木目の整った壁紙にシックなブラウンのソファ、落ち着いた雰囲気の中にも鮮やかな色や花が溢れていて胸が踊る。

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カーテンとハンカチの柄が似ていたのが嬉しくて写真を撮った

 糖分を摂取して気力が回復したので、商店街をぐるりと回り、街のお寿司屋さんに着く。前回来た時はちょうど閉店してしまったタイミングだったのでリベンジである。

「2人分の寿司飯しか残ってないけど、いい?」ということだったので、できる分だけぴったりに作って頂いた。有線からは、寿司屋には似つかわしくないクリスマスソングが流れている。仕事帰りのお客さんが持ち帰り用の寿司を買って帰ったり、店の前を通るサラリーマンが店主に会釈して去っていったり、「街とともにあるお寿司屋さん」という感じがした。普段行く回転寿司では、たまごはあまり食べないネタだけれど、お寿司屋さんのたまごは大ぶりで甘じょっぱくて、特別に美味しかった。

 

長年この土地で寿司屋を営んでいるという店主は、海軍の隊員にも定期的にお寿司の作り方を教えているということで、お店の片隅には賞状も飾られていた。改めて、海上自衛隊と密接に関わりのある街だと認識できた。

 

 

舞鶴旅の最後に一日の疲れを癒すため、若の湯に寄った。

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若の湯は明治時代に建てられたそうで、一般的な銭湯の外観のイメージとは一味違った装飾が見られる。決して広くはなく、脱衣所も浴室も、10人も入ればかなりの混雑になってしまうほどだ。お湯は少しぬるめのものとかなり熱いもののふたつで、熱いお湯が苦手なわたしはぬるい方にしか入れないのだが、数ある銭湯のなかでも1、2位を争うくらいにこのお湯が好きだ。

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この日も高齢者から小さなお子さんまで幅広い世代のお客さんが入れ替わり立ち替わり入っていった。ちょうど昨日(1/11)からリニューアル工事のためしばらくお店を閉めることが張り紙に書かれており、ギリギリ滑り込めたのはとてもラッキーだった。5月にはリニューアルオープンする予定だそうなので、また入りにいきたい。しかも、hpを確認したら、なんと昨年(2019年)から舞鶴市ふるさと納税として「銭湯応援!若の湯セット(¥10,000)」というものが出ているらしい。来年度の候補にしよう。


 

結局のところ、街を訪れるきっかけはどんな理由だって良いのだよなと思う。どんなきっかけでも良いから、いろんな街を自分の足で歩いてみたい。伯父がこの地で働いていなかったら、きっと何度も舞鶴を訪れることはなかったと思う。この記事が、誰かの舞鶴に足を運ぶきっかけになったら、伯父の冥土の土産になるかもしれない。

 

 

【参考】

舞鶴赤れんがパーク:https://akarenga-park.com

・マナイ商店街:http://www.dance.ne.jp/~manai/index.html

・若の湯:https://kokintnb.wixsite.com/wakanoyu

 

写真:筆者撮影