琵琶湖の夕焼けとスラ・スラン

あれは祖父の葬式のあとだったか、父親とドライブをする機会があった。二人で車に乗って何処かに行くのは、東日本大震災の際に旅先で被災した姉を迎えに行った時以来、およそ5年ぶりのことだった。

 

ドライブと言っても、街の和菓子屋まで地元の銘菓を買いに行くという、ただの野暮用だ。さらに、喜んで付いてきたわけではなく、母は母で用事があるし、姉と父を二人にするのはベターじゃないし、父が一人で行くのも信用ならないから仕方なく付いてきただけのことだ。

祖父母の家のある村から約一時間ほど車を走らせたところにあるその街は、父親が高校時代を過ごした場所でもある。父はハンドルを握りながら、当時を懐かしむように思い出話をした。ほとんど聞き流したが、父が大学に進んでからの話だけは強く印象に残っている。

 

父は高校を卒業すると、都内の国立大学へ進学するが、ほどなく中退してしまう。そこまでは何度か話には聞いていたが、辞めた理由というのが「景色に山が見えないのが落ち着かなかったから」だと聞いて、拍子抜けしてしまった。

確かにその街を走っている間、どこを見渡しても視界には山々が入ってきた。祖父母の家に戻り、蔵の整理を手伝っていると、屋根裏には英語の慣用句がずらりと書かれた張り紙が貼ってあるままだった。父ら兄弟は屋根裏へ梯子を渡し、夜な夜な勉強に励んでいたようだ。そんなにも熱心に勉強したからこそ、念願の上京ができたというのに、どうしてそんな理由であっさり辞めてしまうのか。わたしにはさっぱり理解が出来なかった。「ああ、やっぱりいつだってこの人は過激だわ」と半ば呆れるのだった。

 

成人してもう10年くらい経つというのに、父の考えていることはまだまださっぱり分からない。父の口からは、次から次へと突拍子もない、摩訶不思議な話が出てくる。これからも、お互いが生きている間、分かり合うのは永遠に不可能なのではないかと諦めてさえいる。

 

でも、「山が見えないこと」を最大の理由に大学を辞めた父の気持ちが、いまの自分には何となくわかる気がするのだ。

父が山の気配を探していたように、わたしはどこに行っても水の気配を探していた。

 

大学進学を機に上京してからは、たまに息が苦しくなって水のある場所へ行った。小石川後楽園隅田川、上野の不忍池。それは深呼吸と言うよりも、水泳の息継ぎに近かった。特に、国立博物館の正面にある噴水には、数えきれないくらい訪れた。ベンチに座って本を読んだり、公園を行き交う人々を観察したり、湧き上がる噴水を眺めながら、ただ時を過ぎるのを待った。

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いま思えば、故郷の面影をそれらの景色に見出そうとしていたのだと思う。それを証明するように、パソコンのハードディスクには全国各地の水辺の写真が保存されている。

 

わたしがどこに行っても水辺を探してしまう理由は、父親と同じく、高校まで過ごした街の風景にあった。幼少期から地元を離れるまで、この湖が目に入らない日はほとんどなかった。

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あまりにも身近だった分、これが別段珍しいものだとは思わず、同じような景色はどこにでもあるものだと思い込んでいた。電車で数駅離れた場所から高校に通う友人には「こんな場所が家の近くにあるなんて羨ましい」とよく言われたが、当時のわたしにはピンとこなかったので、「え〜そうかなあ。別に大したことないよ。全然普通だよ」と返すばかりだった。

地元を離れて外の世界に出て、ようやくそれが当たり前でないことに気付いた。いつもそばにあったものの不在に気付くと、人は急に寂しくなるものだ。視界のどこかに水辺がないとどうも落ち着かない。

そして、外の世界に出て、色んな地に足を運ぶようになってから、さらにわかったことがある。故郷の湖だけでなく、自分が探そうとさえすれば、安心感を与えてくれる景色は旅先にだって見つけられるということだ。

 

琵琶湖の夕焼け

社会人になる数日前、滋賀県にある琵琶湖を初めて訪れた。京都に遊びに行ったはずなのに、吸い寄せられるようにして琵琶湖に辿り着いていた。不思議と、一番に感じたのは懐かしい気持ちだった。初めてきた場所なのに、故郷に帰ってきたような強い安心感を覚えたのだ。それと同時に、いつかここに住むことになるのだろうなと直感的に感じた。それは数年後、現実のものとなった。

 

滋賀に住んでいる間、人混みに疲れた日や誰とも話したくない時はいつも決まって湖畔にきた。ゆっくり本を読みたいときはコンビニでコーヒーを淹れて、むしゃくしゃした日にはファストフードをテイクアウトして人目もはばからず貪るようにむしゃむしゃと食べた。天気が良い日はカメラを持って木々や湖の写真を撮った。

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ある時、水運の研究をしていた大学時代の友人が東京からはるばる遊びにきてくれたことがあった。湖岸をドライブしているとき、ふと彼女が発した「私、淡水が好きなんだよね」という一言で全てが腑に落ちた。それは点と点が繋がる瞬間だった。わたしがいつも探し求めていたのは、淡水の穏やかな水辺だった。

 

そういえば、父の話が大学を中退したところで終わっていたので続きを書こうと思う。父はその後、地方の大学に再入学した。今度は景色に違和感を感じなかったのか、無事に卒業して、その土地で職を得て、結婚相手を見つけた。いずれその場所がわたしの故郷となるのだから、たとえ何となくでも感じた違和感や居心地の良さは馬鹿にできない。

 

スラ・スラン

故郷に感じる安心感を与えてくれる場所は、日本国内だけとは限らない。

二十歳の頃、取得したてのパスポートでカンボジアに飛んだ。首都であるプノンペンで、クメール・ルージュによる虐殺の歴史を物語るトゥールスレンやキリングフィールドを見学した後、旅の後半にはカンボジア北西部にあるシェムリアップを訪れた。旅程の中でもメインイベントのひとつ、アンコールワット群を巡る日の朝のことだった。身体の火照りを感じて世話役の先輩に申し出ると、大事をとって離脱することになった。そのまま、先輩とふたりでトゥクトゥクに乗り、国際病院へと向かった。数日前、川に飛び込む遊びをしたせいか、白血球の数値が著しく下がっていた。点滴を打って貰い、しばらくベットで横になり、アンコールワットには一瞥もくれることなくゲストハウスへ戻った。

わたしがその日訪れることのできた最後の地が、スラ・スランだった。

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沐浴を意味するスラ・スラン。王が沐浴をするために作られたという人工の池だ。当時は寺院が建てられていたようだが、いまは西側にテラスがあるだけで、ただ水辺が広がっている。何もない分、空は広く、遠くまでよく見渡すことができた。 

 

その日の夜、ゲストハウスのソファでうとうとしていると、先輩たちの談笑する声が聞こえた。先輩は「ゲストハウスのオーナーさんに、この辺で一番好きな場所はどこか聞いてみたらスラ・スランだって言うんだけどおかしいよねえ、何もないのにね」と、決して馬鹿にするわけでもなく笑いながらそう言った。わたしはオーナーさんの気持ちが分かる気がするなあと小さくにやけながら、目をつむって寝たふりをした。

 

シェムリアップを離れる日の朝、先輩が「アンコールワットに行けなかった分、この街で行きたいところにひとつだけ寄って行っていこう」とわたしのリクエストを聞いてくれた。もちろん、わたしはスラ・スランをリクエストした。スコールが降りしきる最中、水量を増していくスラ・スランを眺め、シェムリアップを離れた。アンコールパスまで手に入れたと言うのに、結局、アンコールトムにもアンコールワットにも訪れることなく旅は終わってしまった。

 

それからまた年月が経ち、何の縁か、仕事でカンボジアに行く話が持ち上がった。偶然、二十歳に訪れた時と旅程はほとんど同じで、これは運命なのだろうかと錯覚を覚えそうになった。今度こそアンコールワットにリベンジできる!と意気込んでいたのもつかの間、雲行きは怪しくなり、計画は頓挫して、アンコールワットはまた幻になってしまった。

 

いつかまた近い未来に、カンボジアの地を踏もうと決めている。念願のアンコールワットにも行くつもりだが、わたしのことだから、きっと早々にアンコールワットを後にして、スラ・スランの縁で水面を眺めているのだろうと思う。