あなたにはサードプレイスがあるか

 

顔見知りの多い世界はどこか窮屈だ。

“その人向きの顔”をしなくてはいけないからかもしれない。あの人にはここまでの話はできる、でもこの一線を越えたら引かれてしまうかもしれない、じゃあやめておこうと言って悶々とした気持ちが放出されないままでいる。私はサシ呑みに近い少人数の飲み会は得意だが、人数の大きい飲み会やそれに近い場所が苦手だ。どこまで自分を見せたら良いか分からなくなって、結局ニコニコして人の話を聞くに徹する。

 

 

案外、自分のことを全く知らない人の方が、自分のことをペラペラ話せることもある。人間は家庭でも学校でもなく、職場でもない居場所を一つ以上持っていないと必ずダメになる。

 

 

学生時代、コミュニティに関する論文を書いた。その参考文献の中でも特に印象に残っているものはレイ・オルデンバーグの著書、『サードプレイス―― コミュニティの核になる「とびきり居心地よい場所」(The Great Good Place)』だ。彼はその中でサードプレイスの重要性を唱えている。自宅のように人々が生活をする場所をファーストプレイス、職場や学校などの一日の大半を費やすであろう場所をセカンドプレイスとして、家でも職場でもない「第3の居場所」がサードプレイスとして位置付けられている。

 

サードプレイス―― コミュニティの核になる「とびきり居心地よい場所」

 

どんなに居心地のいい場所であっても、必ず逃げ場のようなものは必要だ。

常に百点満点な人間や人間関係なんて存在するわけないのだから、ちょっとやそっとその交友関係に否定的な気持ちを肯定してくれる場所がないと人間はやっていけない。

 

 

2年ほど前に世間を騒がせた暗殺事件の被害者、金正男は身分を隠して一般人と酒場を楽しんでいたらしいと聞く。立場や身分に縛られ生きるだけではなく、まっさらな生身の人間として付き合える場所こそが人生に潤いを与えているような気もする。

東京に住んでいる時、友人の住む高円寺によく飲みに行った。そこで友人が仲良くなったおっさんたちと定期的に飲みに行くようになったのだが、丸の内に自社ビルを構える会社で総務をやっているおっさんや、新宿の某携帯会社の本社で働いている人もいたが、立場や年齢など関係なく“飲み友だち”だった。遠くへ引っ越したいまでも東京に寄れば皆集まって飲むし、気にかけて連絡を取ってくれる人もいる。

 

 

 

川崎・登戸での殺傷事件を受けて、現代にはこのサードプレイスが欠如している人があまりにも多くなってきているのではないかと思った。ご近所付き合いなど、都市部ではほとんどない。むしろ顔の見えない隣人は怯えるべき存在にさえなりうる。人が溢れるほどいるのに、家の中では孤独なのだ。ある程度の気力があれば、能動的に外の世界へサードプレイスを見つけにいけるかもしれない。でも現実にそんな気力や勇気がない人も多くいて、SNSやオンラインゲームなど、ネット上で人と繋がれることは唯一の希望なのかもしれない。

 

 

容疑者の自宅にゲームがあったというニュースを知り、『箱入り息子の恋』という映画を思い出した。友人とテアトル新宿へ舞台挨拶を観に行った記憶がある。

星野源演じる主人公は、一人息子であり公務員として勤めている。趣味は貯金、友人はおらず、毎日の昼休みには実家に昼食を取りに両親と住む自宅へ一時帰宅する。自室に籠もれば、ペットの蛙を愛でることかゲームに勤しむくらいしかない。映画の中での描写とはいえ、彼にとってはそのゲームこそが精神安定剤なのだということが登戸の事件を受けて改めて感じられた。現実にこの主人公のような状況が何万とこの国の中では起きているのだろう。

 

 

容疑者が遊んでいたゲームがどのようなものか知らないが(私は一昨年グラセフにハマっていたくらいでゲームについて詳しいことはあまり分からない)、もしも彼のゲームがオンラインゲームではなかったとして、仮にネット上で顔の見えない誰かとコニュニケーションを取ったり、毎日のやり取りをしていたり、帰る場所のようなものがあれば、このような結果にはならなかった可能性も少なからずあったのではないかと思ってしまう。

 

箱入り息子の恋

箱入り息子の恋