ちょうどいい誕生日の過ごし方

世の中には大きく分けて二種類の人間がいる。誕生日を盛大に祝って欲しい人間と、そうでない人間だ。

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誕生日、誰しもが一年に一度必ず経験しなければいけないイベント。正確にはイベントと呼ぶほどでもない、ただ “同じ数字が充てがわれた日” が365日後に来るだけだ。

 

中学時代の部活の顧問が「俺は13歳なんだ。4年に一回しか歳をとらないからな。」と言っていたけれど、彼にはちょっと黙っていて欲しい。確かに誕生日自体は来ないかもしれないけど、あんたは確実に歳をとってるのが私には分かるよ。論点がだいぶ逸れるのでこれ以上は考えないことにしよう。

 

 

 

二種類の人間に話を戻すと、わたしは完全に “そうでない” 人間のひとりだ。かといって、誰一人としてわたしの誕生日を思い出すことなくその日が過ぎ去って欲しい…とかいう極端なタイプなわけではない。ただ、なんとなくひっそりと、親しい人の何人かが「あぁそういえば今日って」みたいな軽い感じでおめでとうと言ってくれるくらいが心地が良い。

 

むしろ、律儀に当日にメッセージなど送られると、「facebookの基本情報から調べたのだろうか?」とか変な勘ぐりを入れてしまうから、数日経ったあととかに何となくおめでとうと言われるのが案外嬉しいのかもしれない。有り難いことに、毎年義母からはお祝いメールが届くのだが、それをどうしても重たく感じてしまうのは、この日は絶対にメールを送ろう!という向こうの気持ちにプレッシャーを感じるからなのだろうなと思う。実母に至っては、メールが来るかは年によってまちまちだが、最近は当日にシンプルな一文の短いメールが来る。

 

 

 

この間、テレビに二階堂ふみさんが出ていた。

新しい髪型も相変わらず可愛いな、細い眉毛が似合うな、なんてことを考えていたら、ふみさんはどうやらわたしと誕生日が違いらしく、共演者に「もうすぐ誕生日だけど、どう過ごすの?」と質問されていた。

 

ふみさんは毎年、仲良しのお友達を呼んで誕生日パーティーなるものをやっているらしい。とてもお似合いだし素敵だ。今年もイベントを企画しているらしく、当日の衣装も既に決めているようだ。ピンクのビスチェ。それ以外の情報がないので一体それをどう着こなすのかは不明だが、きっとセンス良く着こなすのだろうなと想像する。イメージ通りに、ふみさんは、紛れもなく前者だった。何よりも本人が盛大に祝われる図が容易に想像できるし、本人がそれを希望しているのだから、オールオッケーである。

 

 

かくいうわたしも、先月の下旬に二十数回目の誕生日を迎えた。着々とアラサーの階段を登ってきている。富士山で言えば、あともう少しで宿に着き、一晩仮眠をして頂上に向かうというところだろうか。ご来光まであともう踏ん張りだ。ただし、誕生日当日は旅の直前ということもあり、荷造りや家の掃除で誕生日を祝っているどころではなかった。

 

 

 

おそらくわたしは、誕生日だけでなく、記念日などのイベントごとに対して、言いようもない苦手意識があるのだろう。誕生日にかこつけて大きな買い物をすることやいつもなら60分コースのタイ古式マッサージを90分コースにすることには何の問題もないのに、“人から何かしてもらう” となるとガラッと話は変わってくる。

 

 

高校生の時、初めてお付き合いした人は記念日にこまめに贈り物をしてくれる人だった。気持ちをくれるのはありがたいが、物を貰う側からすればかなり重たいプレッシャーがあるんだな、とその時感じたのだった。

 

確かに好き同士とはいえ、たった数ヶ月間の関係性の人間にネックレスをあげる気持ちがわたしにはどうしても理解が出来なかった。もっとこう、プレッシャーの感じないものがいい。身につけることはおろか、まともに開封することなく、怖くなってそのネックレスは紙袋ごとコンビニのゴミ箱へ突っ込んできてしまった。ただし、別の機会にその人に貰ったバーバパパのマグカップは可愛いので使うことにした(今でも実家にある)。

 

 

意味合いの強いプレゼントを貰うことと同じくらい苦手なのは、“サプライズ” である。

ご飯を食べに行ったら、突然バースデーソングが流れてきて目の前に花火の刺さったケーキが登場するあのイベント。近くの席の人になんだか申し訳ないし、恥ずかしくてその場を飛び出したくなってしまう。

 

大学時代はこのイベントが頻発する地獄な時期であった。最初は少し嬉しい気もしたが、突然のバースデーソングはわたしには恐怖のBGMに感じられてしまうのだった。「まさか、私じゃないよね。」と思っているうちに、作りもののニコニコした笑顔でわたしのネームの描かれたプレートが運ばれてくるのが見えると、「あぁ、私か。笑顔で喜ばないとな。」という気持ちになってしまう。

 

私の場合、もし誕生日サプライズを敢行されるのであれば、BGMにはゼクシィっぽい雰囲気のある音楽じゃなくて、電気グルーヴのHappy Birthdayを流してもらって、熱燗とホッケの焼き物とかを持ってきてくれたら素直に喜べそうな気がする。

 

こう考えてみると、人の思いをわかりやすい形のあるもの(例えばアクセサリーや名前入りのホールケーキなど)に込められるのがきっと苦手なんだと思う。もっとサラッとフワっとしたものに託してくれたら、受け取る側も気持ちが楽なのにな、と思う。

 

 

 

そんなことを悶々と考えていたら、旅行中に友人のSがスーツケースからラッピングされた無印の大きな紙袋を取り出して「あ、そういえばお誕生日おめでとう。これ、誕生日プレゼント。」と言って渡してくれた。

 

何だかニヤニヤしているな、と感じつつもずっしり重い紙袋を開封してみると、中には想定外のものがぎっしりと詰まっていた。

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無印のカレーシリーズ全種類とナン作りキット。

わたしはこれを見て、なんて最高なんだろうと思った。最適な言葉が見つからない。誕生日だからといって、かしこまった感じもなく、「女友達へのプレゼント_おすすめ」 と検索しても到底出て来ないであろうこのチョイスを友人がしてくれたことに感服してしまった。わざわざこの旅用に新調したという、かなり大きめなスーツケースの場所を1/4くらい取ってしまっていることも可笑しくて愛おしい気持ちになるのだった。

 

 

何事もきっと、自分の身の丈にあっていることが一番ストレスがなく、心地が良いのだと思う。これも一種のサプライズではあったが、意表を突いたプレゼントに感動してしまった。友人Sに感謝の意を表してこの話を締めくくりたい。

 

写真:Free-PhotosによるPixabayからの画像

心がclosed(閉店中)になった話

このところわたしはずっとモヤモヤしている。その原因ははっきりしているのだが、どうにも解決策が見つからずに悶々とする日々が続いている。

 

来月の上旬に、中学時代からの親友Kが遊びに来る予定になっている。せっかく関西に来るので、我が家に遊びに来るだけでなく2人の旅行も兼ねようということで、関西をぐるっと周る計画を立てている。日程が決まったのは7月下旬とか8月の頭くらいで、かなり余裕を持って進んでいるはず……だった。蓋を開けてみれば、現時点で確定しているのは宿だけだ。それもたった1泊分。にも関わらず、宿を取るのに2〜3週間も時間がかかった。

 

わたしが普段旅に出るときは、目的地を決め、ざっくりとした行程とともにエリアを定めつつ、宿を探す。宿が決まれば、エリアと行動時間から換算してその日の旅程をざっくりと立てていく。早ければ2〜3日、長くても一週間あれば大体の予定が決まる。ひとりの旅行は気が楽で本当に良い。

 

一方で今回の旅行は1泊分の宿を決めるだけでも数週間を要している。その原因としては親友がそれほど旅行慣れしていないというのもあるし、土地勘がないというのもある。でも、2〜3週間ってかかりすぎじゃない???!?というのが私の正直な感覚である。旅には決断力が求められているのだ。旅をするとき、数ある候補地のなかから自分のリクエストになるべく近いものを自分の嗅覚で選び取っていく必要がある。

 

その中学からの親友Kと同じく、来週末には高校時代の友人Sが遊びに来る。こちらも同程度のボリュームの旅行を兼ねているが、こちらに関しては1回の打ち合わせ(電話で約1時間)で2泊分の宿、レンタカー、だいたいの当日のルートが決まったのだった。

 

 

この違いはなんだろう〜

 

この違いはなんだろう〜

 

 


春に

 

そもそも、親友という呼び方をわたしはなるべくしたくはない。友人のなかにある序列をわざわざ公にしているみたいでいやなのだ。それなのにKを親友と呼ぶのは、友人と呼ぶには物足りなさすぎるからだ。親友呼びを嫌がるとかの次元じゃなく、Kは親友と呼ぶしかないくらいの存在なのだ。わたしの根底には義理人情の考え方が強くあって、昔からの友人を大切にすることは自分の人生にも繋がっていると思っている(仮に、今世のうちに刺青を入れる機会があるとしたら「義理人情」と彫りたい)。

 

正直、人間関係はばっさり捨てるタイプではある。親しき仲にも礼儀ありというのが体現できない関係は、あっさりとその人の元を立ち去るようにしているので、この5年で疎遠になった関係は結構ある。

 

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お互いを尊重できない相手と友人を関係を続けることに費やす時間は無駄だと思う。もはや、それは友人関係とは呼べないし。だから正直、Kが親友レベルの人間でなかったら、縁を切るとまではいかなくとも、いまごろ距離を置いていると思うのだが、いかんせんそうもいかない。わたし、どうしたらいいでしょうか?

 

 

親友Kは超ポジティブで、おそらく自己肯定感がかなり強く、LINEでも電話でもとにかく自分の話が先決なのだ。とにかく近況を1から10まで話さないと気が済まない。本心でいえば一文で返したいところだが、LINEでは同じくらいのボリュームで気遣いの言葉、いかに相手を労わる言葉を並べるかがここ最近のルーティンになりつつある。相槌を打つ達人になる修行をしているようだ。「自分の話ばかりする_女」などと検索しては、Kは実は自分に自信がないから自分の話ばかりするのか?はたまたプライドが高すぎるのか?などと考察するのに時間を費やしている。

 

Kは、親友というか、双子の姉(妹)みたいな存在になっているのかもしれない。Kとは家族構成も同じで、父親の性格もそっくりで、お互いの性格もかなり似ているところが多い。その分分かり合えることも多い一方で、実の姉とそばにいれば喧嘩するように、他人だと割り切れるものが割り切れなくなっているのだと、自分では分析している。

 

 

わたしがこのように心の折り合いをつけているなか、先ほど来月の旅行に関する何回目かの打ち合わせの電話をした。わたしは「来週以降は予定が詰まっているし、時期も迫ってきているので、なるべく今回の打ち合わせである程度の予定を組みたい。」とあらかじめ伝えていた。しかし、いざ電話を始めたら、自分の仕事がどれだけ忙しいのかなどという主にKの話をウンウンと聞くことに5割程度の時間を割いた。結局、京都散策のエリアとその際に着物を借りる店舗が確定しただけだった。挙句の果てには、わたしが今回の旅行に関する話をしていたにも関わらず、「次行くときは浴衣で川床行きた〜い!」という一言により遮られ、その話は中断したまま終わった。

 

その瞬間、テラスハウスのエンディングでドアがバタン!と閉まる音が心の奥から聞こえた。

 

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 (親愛なる泉沢さん風にイラストを描いてみました)

大伯母のパスポートと失くした学生証

高2の新学期、毎年例のごとく行われる地獄の自己紹介タイムがあった。ひとりひとり壇上に登って、担任から指定された項目について話さなければならない。自己紹介に盛り込むべき内容のひとつは「将来の夢」だった。自分の将来の夢を、ほとんど顔も名前も知らない新しいクラスメイトに宣言することが一体何になるのだ、とひねくれた私は思いながらも「将来の夢は自由に生きることです」とだけ言った。あれから10年以上経つけれど、未だに自由に生きるとは何なのだろうと考える。たったひとつ最近わかったことは、自由に生きることに孤独は付き物だということだけだった。

 

大伯母のパスポート

今年の盆は地元に帰省しなかった。高校の同級生が何人か「今年は帰ってこないの?」と連絡をくれて、帰りたい気持ちも山々だったけれど、なんとなく気乗りしない気持ちが勝ってしまった。それでも、お盆に近づくと亡くなった祖父や伯父なんかのことをぼーっと思い出していた。ふと、伯父の遺品を整理していたときの光景を思い出した。積み重なった遺品の上に乗った一冊のパスポートだった。それは伯父のものではなくて、祖父の姉、つまり大伯母のものだった。

 

わたしは伯父の部屋のなかでも、日記や手紙などのまとめられた、特にプライベートな部分をたまたま担当していた。なかには、当時気になっている女の子に対する気持ちが綴られている、姪としては少々気恥ずかしい内容のものや、海上自衛隊を辞めるきっかけになったであろう手術をしたことが書いてある日記もあった。手術のことは母も知らなかったらしく、「船酔いするようになったから」という理由で海自を退職したと説明していたようだが、いま考えてみるとジョークのような理由だなと思う。

 

近くの段ボールにはごっそりとエッチなVHSが入っており、一緒に整理をしていた両親に申告するのがはばかられた。霊は性に関するものには弱いとどこかで聞いたことがあるので、仮にこれを書いている途中で伯父の霊が画面を覗き込んでいたら、目を塞いでくれることを願いたい。両親に報告したところで、「こんなにたくさんあるんだから売りに行けばいいじゃない」と母に向けて大真面目に言っている父親を見て、コイツはなんてふざけた野郎なんだろうか、と呆れてしまった。

 

書類の間に埋もれていた封筒には、証明写真の余りが何枚も入っていた。まだ20代くらいであろう、わたしが見たことのない伯父の若い頃の面影が残るものもあった。わたしは母の目を盗んで、その数枚をエプロンのポケットに入れた。それと同じように、わたしが大学生の時に亡くなった大伯母のパスポートを、伯父も大事にとっていたのだった。そのパスポートもポケットに忍ばせようかと思ったが、残された祖母の家には、伯父だけでなく、祖父や大伯母の遺品が捨てられずに残っており、母が遺品整理にあくせくしていたのこともあって憚られた。

 

そのことを急にふと思い出し、もしかすると母が保管しているかもしれない……と、気がついたら連絡していた。普段は半日〜2日してから返信があるのに、数分後に「おばあちゃんが保管しているかもしれないから、探してみるね。」と返信が来ていた。

 

翌日、残念ながらなかったとの返事があり、続けて「ドイツ人のボーイフレンドの写真もありませんでした。」という一文があった。大伯母は女優ならないかとスカウトされるほどの容貌でいて生涯独身を貫いており謎が深い人だったが、ドイツ人の彼氏がいたことになんだか納得してしまった。一体二人は何語で会話していたのだろうか。なおさら、大伯母のパスポートにどんな国のスタンプが押されているのか気になってしまうのだった。

 

どんな人生を歩んだとしても、後世に残るのは親族の脳裏に残るかすかな記憶とたった数枚の写真だけなのかと思ったら、改めて人生の儚さを感じるのだった。数百年を経ても肖像画や写真の残る偉人のすごさを感じるとともに、写りの悪い写真やコンプレックスのある特徴を誇張されて描かれた肖像画に、納得のいっていない偉人もいるのだろう。仮に、後世にたった一枚の写真が残るとするならば、自分史上一番写真写りのいいものであって欲しい。そういえば、私が大学生のときに失くした学生証はどこへ行ったのだろうか。

 

失くした学生証

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私の学生証はひどいものだった。書類提出の締め切りギリギリに、受験票に使った証明写真の余りのうち、指定されたサイズに一番近いものを無理くり端を削ぎ落として小さくしたものだったからだ。証明写真というものは「3ヶ月以内に撮影したものを貼ってください」とかいう割りには、2枚や3枚平気で残ってしまうものだ。だからこそ、わたしの手元には若かりし伯父の証明写真があるのだけれど。

 

オリエンテーション時、わたしに学生証を配布した職員は、わたしの顔が枠内にパンパンに入っている顔写真を見て明らかに動揺していたように思う。その後も枠パンパンに私の顔が写った学生証を、ことあるごとに見ず知らずの店員や職員に見せなければいけなかった。その度に、きちんと服を選び、メイクをして写真をとるべきだったと過去を顧みるのだった。証明写真を提出するときのわたしは「たかが学生証だ」と思っていた。しかし、免許を取る前の大学生にとって一番自分の証明になるものはダントツで学生証だった。

 

ある日、同級生から突然連絡が来た。

「今夜、U先生と新宿西口で飲むんだけど来ない?」U先生とは、高校2年生だったときに私たちのクラスを担当していた教育実習生だった。東京の私立中学で養護教諭として働いていることはfacebookを通じて知っていた。たまたまわたしはその頃新宿ミロードでバイトをしていたので、終わったら行くよと途中参加する旨の返信をした。U先生は特にわたしを目にかけてくれていて、実習の最終日には先生が高校生のときに付けていた鉢巻をお守りがわりにくれた。あなたを見ていると当時の私を思い出す、とまで言われていた。男子ウケのいい先生で、その日も集まったのはわたし以外全員男子だった。

 

お酒の強かったわたしは、調子に乗って男勢と一緒に冷酒をぐびぐびと飲んだ。バイト終わりから参加したため、飲み始めて数時間でその飲み会を離れるのが名残惜しくて、終電を見送ってしまった。24時間営業のマックで始発までオールすればいいと思っていたからだ。これはライブ後に電車を乗り過ごしがちな姉の常套手段だった。新宿なら始発も早い。始発に乗って帰るくらいどうってことない、と思っていたが、解散時に同級生から「それはやめなよ」と諭され、急遽U先生の家に泊めてもらうことになった。仕方なくだったはずだが、先生は嫌な顔ひとつせずに連れて帰ってくれたのだった。

 

たぶん、小田急線に乗ったのだろうと思う。どの駅で降りたかはあまり覚えていない。

ただ、改札で同級生に手を振って、パスケースを改札にタッチして、先生の家の最寄り駅までついたことは覚えていた。駅に到着し、改札を出ようとしたら、カバンに入れたはずの定期がない。たいていは酔っ払って焦っているだけで、カバンの奥底に入っている……というのがオチなのに、その時はどこを探してもなかった。まずい、と思い先生に伝えると、べろべろの私に代わって駅員に事情を話してくれ、なんとか改札を出ることができた。

 

到着した先生の部屋は、女性らしい可愛いお部屋だった。それでも、東京で私立校の先生にまでなったのに、この規模の家にしか住めないのか……と少しショックを受けた記憶もある。ベッドを使っていいよと言ってくれたけれど、申し訳ないと何度もお断りして、カーペットの上で寝させてもらった。せっかく久しぶりに再会したと思ったら、こんな形になってしまって、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

 

翌朝、先生にお礼を言って朝日の眩しい電車に揺られながら自宅に帰り、一眠りしてから先生にお礼と謝罪のメッセージを送った。その日は二日酔いのまま、もう一つのバイト先である東京駅に行った。バイトの休憩時間は電車や警察の落し物センターに問い合わせるうちになくなっていく。定期だけならまだ良かったが、パスケースには学生証も入っていたのだ。わたしの顔が枠パンパンに写っている、あの学生証だ。

 

前にも一度、新宿の東口で友人と〆のラーメンを食べて、友人と肩を組んで上機嫌で歩いているうちにパスケースを失くしていたことがあったが、山手線の落し物センターに問い合わせたらすぐに見つかったのだった。「簡単に見つかるだろう」と高を括っていたら、結局何日経っても見つからなかった。

 

定期券は再発行することでなんとか事なきを得たが、あの学生証の行方が気になって仕方がない。道端の人目につくところに立てかけてあったらどうしよう。想像するだけで恥ずかしくて死にたくなった。通り過ぎる人がその学生証を見て笑うことだろう。まだわたしが大学生のときだったからマシだったものの、いまだったらTwitterに面白画像として投稿されている可能性だってある。手元に戻ってくる見込みも少なく、学生証なしで過ごすのも不安ではあったので仕方なく再発行することにした。

 

学生証の再発行には、手続きにかかる手数料を支払わなければいけないのも厄介だった。まあでも、これであの学生証とはおさらばだ。写りの良い証明写真を持って教務課に向かった。職員に事情を説明すると、すぐに出来ると言われて安心した。ただし、新しい証明写真は必要ないという。イヤな予感がする。どうやら名簿に登録されている写真を使わなければいけないという決まりがあるらしかった。出来立てホヤホヤのまだあたたかさの残る学生証には、枠いっぱいに写ったわたしの顔があった。

 

写真:Wilfried PohnkeによるPixabayからの画像

兄はどこにも居ない

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わたしにはひとりの姉がいる。いつぞやの記事でお披露目した、アホだけど愛すべき姉だ。言い換えれば姉妹しかいない。だから、男兄弟、特に兄が欲しかった。結局ないものねだりで、男兄弟しかいなければ姉が欲しかったと言っているのが目に見えるようだけれど。中学生の時に隣町のシネコンまで観に行った『涙そうそう』で、長澤まさみが兄の妻夫木聡のことを「にーにー」と呼ぶのに強い憧れを持った。

 

 

女きょうだいだけしか居ないはずなのに、実家に住んでいた頃は姉と殴り合いの喧嘩をよくしては身体中にあざを作っていた。元々は二人で使っていた子供部屋のドアに、喧嘩で大きな穴を開けてしまって、これ以上二人を同じ部屋にすべきでないという親の判断で、わたしだけ隣の空いていた部屋に移ることになった。姉がわたしの倍以上の大きさの部屋を独り占めしていたことや、一緒に買ったはずのMDコンポが向こうの部屋にあったことは、未だに納得がいっていない。とにかく、私たち姉妹は、お互いに男兄弟と育ったかのごとく強く育った。

 

 

でも現実に兄はいない。弟だっていない。

たまに、架空の自分の兄を想像してみる。ガタイが良くて、筋肉隆々で、総合格闘技やプロレスをやっているかもしれない。はたまた、チタンでできた細いフレームの眼鏡をかけるような、真面目で、研究職に就くような寡黙な兄かもしれない。どんな雰囲気であろうとも、おそらく私たち姉妹のことを可愛がってくれるだろう。もしかしたら、姉とは喧嘩が絶えないかもしれないが、きっと末っ子のわたしのことは存分に溺愛してくれるだろうなと妄想を膨らませる。

 

 

兄がいたら、父とはきっと激しい大喧嘩をするのだろう。そのときは、殴り合いになって私たち姉妹や母はいたく心配をするはずだ。いつも言いたい放題の父は、兄がいたら少しは縮こまるのかもしれない。いままでしてきたような激しい兄弟喧嘩を、わたしたち姉妹はすることはないかもしれない。兄は、高校を卒業したら、きっと実家を飛び出して、手堅く国公立の大学に進学するだろう。そんな兄を頼って私たち姉妹も実家を出るのが容易に想像できる。

 

 

世の中には色んな家庭環境があるが、子供がいる・いない、産まれた子供が男か・女かでかなりの環境が変わってくると思う。わたしに兄がいたとしたら、全然違う人生になっていたんだろう。ありもしなかった人生を想像してみる。夢を見るのはタダだ。

 

 

ここ数年間、わたしの家族の中ではごたごたが続いている。最後に家族全員が揃ってちゃんとご飯を食べたり、出掛けたりしたのはいつだろうか。いつも誰かしらが欠けている。もしかすると、最後は伯父の葬儀の時だった可能性すらある。わたしは新幹線で葬儀の行われる横浜まで駆けつけ、駅前のホテルに到着した家族と合流して、遅いお昼を食べに、駐車場の広い近くの寿司チェーン店へ向かった。こんなにも楽しくない、気まずい回転寿司が他にあるのだろうか……というくらいに雰囲気の悪い食事だった。姉と父の関係が最悪な状況で、寿司を注文するための会話をするのもままならない。合流する直前に喫茶店でサンドウィッチを食べていたわたしは、タッチパネルを抱えて、3人分の注文を取りまとめ、注文し、寿司の到着をアナウンスする役を率先して行っていた。

 

 

それもきっと、兄がいたら起こる可能性の低かったことばかりだ。父は、誰かにどうにかして家を継いでもらいたい、何としてでも名前を残したいという思いが強い。この世には、望んでも思い通りにならないことはいくらでもあるのに。自分以外の誰かの意思を曲げようとすることだけは認められてはいけないと思う。愛すべきアホな姉は、父の持ち掛けたお見合いの話を一刀両断して、南国生まれののほほんとした彼氏との結婚をなんとしてでも認めてもらおうと数年間奮闘している。わたしも含め、うちの家族はみんな頑固だから拮抗するのは仕方のないことだと思うが、それにしてもひどい状況だ。

 

 

どうしてこんなにも強く跡取りを欲している家に神様は姉妹を授けてくれたのだろうか。人間は平等だとか神様は乗り越えられる試練しか与えないというのはただのまやかしだよな、とつくづく思う。乗り越えられる試練しか与えないのならば、ブラック企業の劣悪な労働環境を苦に自殺することなどないだろう。かと言って、兄がいたらそれで全部解決、というわけでないことも分かっている。兄がいたとして、結婚する・しないは自由だし、男性のパートナーを持つことも、性転換をしたいと思う可能性だって大いにある。そしてその意思は、否定されることなく認められるべきだと思う。

 

 

いま、こんな記事をつらつらと書いていたら、JBLのスピーカーから『東京ららばい』が流れてきた。

 

夢がない明日がない人生はもどれない

東京ララバイ あなたもついてない

だからお互いないものねだりの子守唄

 

なんだか今の気分にぴったりの歌詞だ。どんなに望んだって変えられないものは変えられない。どこにも兄はいない。わたしはただ家族揃ってご飯が食べたいだけなのに。

 

写真:R OによるPixabayからの画像 

東京ららばい

東京ららばい

  • 中原 理恵
  • 謡曲
  • ¥250
  • provided courtesy of iTunes

 

 

鯖缶、姉、ポラロイドカメラ

先週末から39℃の高熱でダウンして、一週間の半分を布団の上で過ごしてしまった。病院に行ったら今流行りの手足口病だと診断された。どうやら先日のプールで貰ってきてしまったらしい。お医者さんには喉に斑点ができていると言われた。診断を聞いていたかのように、翌日から手や足に赤い斑点が増えていった。Twitterでみていたやつだ。懸垂をした後に水ぶくれがたくさんできて痛くなるような感覚が数日続いた。

 

寝込んでから2日目か3日目に夫がせっせとキッチンに立って何かを作っていた。この前の飲み会で美味しかったとやたら感動していた鯖の炊き込みご飯を作ってくれたらしい。ただ、私は喉が腫れてポカリスエットを飲み込むだけで精一杯だったので、炊き込みご飯など食べられるはずがなく、一口だけ食べてご馳走さまをした。手足口病には特効薬がなく、喉の痛みや解熱剤などの薬は貰ったものの、なかなか喉の痛みが治まらない。湿疹ができては薬で抑え、気がつけばまた痛みは元に戻り、いたちごっこだった。

 

生理が途中から被ったのもあって、発症から5日ほど経ってやっと動けるようになった。夫に任せきりだったキッチンは荒れ果てている。心なしか生ゴミの香りが強い気がした。確かに夏はゴミが傷みやすい時期だが、こんなにもコバエが出るものだろうか?と疑問に思っていた。床に落ちていた小さな袋の中をみたら、鯖の炊き込みご飯に使ったであろう鯖の水煮缶がそのまま入れられていた。水でゆすいだ後もない、そのままの状態で。見つけて即、発狂した。虎になりそうだ。どうしたら鯖缶を洗わずに床に放置することになるのだ。しかもこのクソ暑い夏に。溜まったタスクを片付けたら、私が倒れた時用のマニュアルを作ろうと心に決めた。そうでもしないと家がゴミ箱になる。

 

アホな姉ちゃん

姉からめんどくさいLINEがきた。ざっくりいうと「3週間後くらいにそっちに行くから遊ばない?むしろキャンプしない?」という内容だった。もう6年くらい付き合っている彼氏と同棲している姉、最近知り合いから車を譲って貰って二人でよくドライブに行っているらしい。私たち夫婦と違い、姉たち二人は良くも悪くものほほんとしている。こちらの都合などおかまいなしで振り回されるのはいつものことだ。

 

私たち夫婦の間で、私の姉のことを“アホな姉ちゃん”と呼んでいることは、本人には口が裂けても言えない。家族とはどうしてこんなにも勝手なのか、といつも思う。姉だって、父親に振り回されて家族の自分勝手さには嫌という程飽きているはずなのに、妹のことを振り回している。時代は繰り返されるのだ。

 

私の家族はみんな変わっている。父親と母親が変わっていれば、そりゃ娘たちもちょっと変な子になったってそれは仕方のないことだよな。この記事に私の家族のクレイジーさが詰まっている。気になる方はどうぞ。人それぞれいろんな闇があるよね。

 

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ポラロイドカメラ

今朝、昔好きだった人の夢を見て起きた。

 

二つ年上の先輩で、私が二十歳の頃に出会った。透き通った目をしていて、人をあまり寄せ付けないけれど、誰がどう見ても格好いいと思うような不思議な魅力のある人だった。その先輩ともう一人の先輩が人を募って、集められた15人くらいの都内の大学生と一緒に2週間くらいカンボジアを旅した。帰国してから、そのメンバーを交えて遊んだり、二人でも出かけたりした。ある日の夜は、完璧のように見えるその人の、過去の傷のような出来事を話してくれ、特別な人間になったような気分だった。

 

二人とも写真を撮るのが好きで、ある時は中目黒の小さなギャラリーに写真展をみに行った。渋谷へ向かう歩道橋の上で、「二人でひとつポラロイドカメラを買って一緒に写真を撮りに行こうよ」と言われた。私は苦学生だったので、ノリでポラロイドカメラを買うなんてできなかった。俺が〇万円出すから…と言ってくれたけれど、笑ってはぐらかしてしまった。

 

いま思えば、あの時カメラを買っていたら、二人でいろんなところに写真を撮りに行けたんだよな。その後も何度かお誘いしてくれたけれど、予定の前日に結膜炎になってしまい、コンタクトが付けられないのが嫌でドタキャンしてしまったり、何かと予定が被ったりして、3度お断りしてしまったらその後もうお誘いされることはなくなった。大学を卒業してから、集まる機会も少なくなり、私も集まりに参加しなくなり、会う機会はぱったりなくなってしまった。会社を起こして忙しいというのを人づてに聞いた。

 

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ある日、幼稚園から付き合いのある友人と一緒に青山のファーマーズマーケットへ行った。人混みの中で、突然誰かと目が合った。吸い寄せられるようにその方向を見てみたら、その人が居た。ちゃんと話したのは3年ぶりとかだったと思う。わたしは半年後に結婚する予定で、関西に引っ越すほんの数ヶ月前だった。ずっとその人のことが気がかりで、でももうこの先しばらく会うこともないだろうと思って居た矢先の出来事だったので本当にびっくりした。少し切なかったけどホッとしたのは、先輩に久しぶりに会っても、ときめいた気持ちがもう生まれなかったことだった。

 

去年その先輩も結婚したらしい。ポラロイドカメラを買おうと言われたあの日の出来事をいま思いだすと、なんてロマンチックなんだろうと思う。願わなかったからこそ永遠に綺麗な思い出のままで、わたしはきっとまたその美しい記憶の続きを夢に見て起きるのだろう。

 

写真:著者撮影(iPhone6を使用)

よくある苗字に埋もれたい

夫婦別姓を求める声が前よりもずっと強くなってきた気がする。

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わたしももちろん賛成だし、そもそも反対する理由が見当たらない。別姓にしなくてもいいし、苗字を変えたくない人はそのままでもいい。女性にとっても男性にとっても自分の苗字への選択肢がもっと増えればいいなと思っている。

 

実際のところ、自分が役所に入籍の手続きを済ませた後、苗字の変更に伴う手続きをこなすにはかなりの時間がかかった。警察署やカード会社、郵便局、奨学金......etc。思い出せばキリがない。書類を整えたり、実際にどこかに赴いたり、場合によっては手数料が必要だったり、手間もお金も存分にかかる。

 

ここまで読むと、夫婦別姓大賛成!どうして結婚したら夫の苗字に変えなきゃいけないんだ!おかしいだろう!!!というのが結論に思えるが、わたしの場合はちょっと違う。

 

よくある苗字に埋もれたい

不覚にも相川七瀬の夢見る少女じゃいられないのような語呂になった。


夢見る少女じゃいられない - 相川七瀬(フル)

 

わたしの旧姓は客観的に見てもかなり珍しい苗字だと言える。

苗字ランキングなるものに検索をかけてみると、18,000位台だし、日本全国に同じ苗字の人は300人もいないらしい。自分の出身県にどのくらいいるのか見てみると、たったの10人だ。その半数ってほぼわたしの血縁じゃん?という結果。生まれてこのかた、いとこや親戚以外に同じ苗字の人と出会った経験が全くない。

 

 

漢字も複雑で、テストを受ける度に「この苗字を漢字で書く時間もったいないわ〜」と小学生の頃からずっと思っていた。引越しを機に見知らぬ土地の中学校に入学したときは、名前の呼び方が全くわからないという理由でなかなか声をかけてもらえなかった。高校生からのあだ名は、必然的に“苗字の呼び捨て”になった(キャラ的に下の名前呼びやちゃん付けが似合わないという声も一部あり)。

 

 

嫌という程、もはや嫌を通り越して、読み方を間違われることや漢字を間違われることは日常茶飯事だった。おいおいちゃんとしてくれよと思ってしまうが、役所の人にさえ名前を間違えられることもあった。ただ一つ良かったのは、一つ一つを変換しなければ出てこないわたしの苗字を間違えずにメールや手紙で書いてくれる人は信用できるというバロメーターを得たことだ。これは余談だが、名前を覚えるのはコミュニケーションの第一歩である。その部分から間違うような人とはまともな信頼関係など築けるはずがないと思っているので、人の名前を間違えることには人一倍敏感かもしれない。

 

 

名前を打てば一発で個人情報が特定される

苗字だけでなく、さらにわたしを悩ませるのは、下の名前も変わっているということだ。親世代くらいの年代であったら、また少し違ったかもしれない。今は違う。読み方だけでいえばその辺にもごろごろいるような名前でも、どこから取ってきたんだという漢字を当てられたがために、フルネームを漢字で検索窓に打ち込めば一発で自分の個人情報がザーッと出てくる。

 

わたしがもし、研究者であったり、芸能人や著名人であったりするならば、旧姓を名乗ることで〇〇さんといえばあの人!というメリットもあったかもしれないが、残念ながらそういうこともない。

 

特にわたしが嫌なのは、学生時代の部活の記録が出てくることだ。しかも、その競技をまだ始めたての、記録がかなり悪いやつだ。ヒットするならせめて自己ベストを表示させて欲しい。

 

 

かといって、別にわたしは自分の旧姓が大嫌いだったという訳でもなく、苗字=あだ名=自分の代名詞だった訳で、人間の名前というよりはキャラクターとして確立している部分があった。20代になり、いずれ結婚をするようなことがあれば、その愛称ともおさらばなのか…と複雑な気持ちでいた。

 

 

超メジャーな苗字を名乗れる快適さ

そんなことを考えていたら、ひょんなことから結婚することになった。

夫は日本国内でもトップ争いをするような超メジャーな苗字だ。元からの知り合いにも3人はいる。会社や飲食店の名称の一部として使われているのも見かける。誤解を生みかねないので強調したいのだが、人間性に惹かれたのが結婚した一番の理由である。ただ、私にとっては棚から牡丹餅、その辺の体育館に収まりきるくらいの人数しかいない苗字から、いきなり苗字の大手に参入することができたのだ。

 

これもある意味人生で得たネタのひとつだと思って、しめしめと思ったのが正直なところである。案の定、結婚してすぐに同級生と集まって飲んだ場では、わたしの新しい苗字が普通すぎてウケるという話題でその場がドッと沸いた。色んな意味でありがとう夫よ。

  

夫婦別姓が認められるべき権利だというのはもっともなことだけれど、キラキラネームのように自分の本名に囚われてずっと生きていかねばならない辛さのようなものも存在している。過去といまは繋がってはいるけれど、名前が変わって、わたしに関しては新しい自分として新たな人生が始められたような気がしている。ただ長いものに巻かれるのは好きではないけれど、苗字に関してはマジョリティに埋もれるのも悪くはないかなと思う。

 

写真:Csaba NagyによるPixabayからの画像

初めての内視鏡(胃&大腸カメラ)体験記 〜ムーベンと苦い記憶〜

先日、人生で初めての胃カメラ&大腸カメラを体験してきた。

24歳を超えたあたりから、急激に体を壊しやすくなり、年1回のペースで胃腸炎にかかるようになった。少しエアコンの風にあたっただけで盛大に吐く(または)お腹が痛すぎてのたうちまわることが増えた。問診や触診だけでは特に原因は見当たらず、このままではスッキリしないので一回検査をしてみようかという話になった。

 

いざ予約することになり、日時を選ぶも早くて1ヶ月半後という混み様にまず驚く。

麻酔などの検査方法には3種類あったのだが、姉から胃カメラはしんどいという話を聞いていたので、麻酔で寝ている間に口およびお尻から通してもらう方法を大人しく選んだ。こちらが断トツで多いらしい。なお、麻酔に関しては歯医者さんなどでの部分麻酔ですらしたことがないのでこれも人生初である。

 

「お家に帰るまでが遠足です」とはよく言うが、内視鏡検査も似たようなもので、「検査食を食べてから通常のご飯を食べれるまでが内視鏡検査です」というのがもっと流布されるべきだと思う。できればもっと語呂のいい感じで。とにもかくにも、ただカメラを口や尻から突っ込むだけが内視鏡検査ではないのだ。

 

 

 

検査前日(主に検査食レポート)について

検査前日の朝食には、蒸しパンを食べ、白湯を飲んだ。食べ終わってから気付いたことだが、蒸しパンの上にはレーズンが5粒ほどトッピングされており、これは検査前日には控えてほしい食べ物だったようだ。どうやら小さい種のある果物(キウイ、スイカなど)や食物繊維の多いもの(野菜、キノコ、海藻など)は避けるべきらしい。分解しきれず、検査時に種や繊維が残っていると紛らわしいのだろう。

 

 

昼食と夕食は、あらかじめ病院で購入していた検査食(デリシア)を頂く。レトルトパウチが一箱のセットになっているものだ。実費負担は¥1,000。まず、昼食は野菜のクリーム煮とクラッカー。できるだけ見栄え良く盛ったつもりではあるが、なんとも味気ない。チェ・ホンマンであれば1口で平らげてしまうんじゃないかという量だ。問題なのはお味の方だが、クリーム煮は具材もゴロゴロしていて、鮭の入った北海道シチューっぽかった。悪くない。クラッカーは一回り小さく、かつ塩気を和らげたリッツ改めルヴァンプライムという感じだった。

 

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夕食は鶏雑炊と大根のそぼろ煮。左の鶏雑炊は胸肉?ささみ?が入っていたけどパサパサしてあんまり美味しくなかった。泣 ただし右のそぼろ煮は、結構クオリティが高い。大根もかなりとろっとろに煮込まれているし、とろみがちょうど良いのもさることながら、味付けが抜群だった。定食屋の付け合わせで小鉢にちょろっと盛ってあるくらいだったら、レトルトとは気づかないかもしれない。

 

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味気なさpart2

前日は、たったこれしか食事が取れない。人生のプライオリティにおいて、食に一番重きをおいている人間にとっては苦行としかいえない。

 

 

ムーベン(経口腸管洗浄剤)との闘い

ただ、戦いはまだ始まったばかり。翌日にかけて3種類の薬品を飲まなければならない。

まずは1つめの、下剤 ラキソベロン(10ml)はコップ一杯の水かお茶に溶かして飲むということだったが、ほんのり甘い砂糖水のような感じでクセもなく、難なくクリア。この日は検査に備えて12時前に就寝した。

 

 

翌朝、8時までに便が出ているはずだということだったが、夜中はおろか、早朝にも全く動きがない。これまでの努力を無駄にして、再度予約&検査食を追加購入することは避けたいところである。検査時間が遅いので、薬を飲む時間も全て1時間ずつ遅らせてもらっていた。この計算でいえば9時くらいまでは待つ余地があると思い、続いて8時前にガスモチン(腸管蠕動促進剤)を3錠飲む。待っていると予想通り8時半くらいにどっと便意が来た。

 

 

ここまでは順調に来たが、問題はここからだ。ラスボス ムーベンの登場だ。

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(参照:ムーベン配合内用液の基本情報(作用・副作用・飲み合わせ・添付文書)【QLifeお薬検索】

 

前日のうちに下剤の名前を確認していた際、既出の2点に関しては簡単に覚えられる名前ではなかったので容量で認識するしかなかった。こちらはどうか、ムーベン。ムーベン…ムベン……。無便!!!!?!!安直すぎないだろうか。これは製薬会社のせめてものユーモアなのだろうか。ムーベン自体の容量はおよそ500mlだが、これを4倍稀釈して飲まなければならない。しかも、最初の3杯は15分に1杯のペース、4杯目からはなんと10分に1杯のペースで飲んでいかなければならない。1杯ずつ稀釈して飲むのは手間がかかるので、2Lの天然水のペットボトルの水を少し空け、ムーベンを追加して薄める形をとった。いざ、飲んでみる。

 

 

……不味い。否応なく不味い。子供だろうが大人だろうが誰が飲んだところでたぶん不味い。ポカリやアクエリほどは甘くないし、しょっぱさも感じる。看護師さんがちょっと引きつった笑顔で、頑張って飲んでくださいねと言っていたあの光景が脳裏を駆け巡る。さっきまで微笑ましいとすら感じていた名称でさえ憎たらしくなってくるマズさだ。1杯目を飲みきる頃、「あ〜美味しくなってきた気がする。うんうん。大丈夫かも。人間ってすご〜い。適応能力ってすごいわ〜。」と自分を勇気付けていた。心の持ちようは大事だ。しかし、2杯目を口に含み、飲み込む寸前でぶちまけてしまった。辛い。これからトータルで12杯も飲まなきゃいけないのに。泣きたい。この時点で、大腸検査をすることが今後極力ないよう健康に努めようと誓うわたし。涙目。

 

ムーベンを飲む目的は、便の状態を透き通った水に限りなく近くし、大腸の状態がわかりやすくするところにある。これを飲んでから短いときで3分に1度くらいのペースで便意が襲ってくる。そしてその度に綺麗になっていく便。とにかくわたしの今日タスクは、2時間に渡ってこの作業をひたすら繰り返すことだった。ムーベンと自分との闘いだ。「BEN」いま何回目?

 


椎名林檎 - きらきら武士

 

気付けば、電車の中でとてつもない腹痛が襲ってきたときなどによくやるTwitterでのエゴサーチをしていた。「ムーベン 辛い」「ムーベン 不味い」。みんなそうだよね、わたしだけじゃないよね…と普段集団意識もクソもない人間が誰かの共感を得るのに必死だった。

 

ただ、ここで一筋の光が見えてくる。確かに用意されたムーベンの量は2Lだが、あくまでもこれは最大量である。わたしの大腸は従順にハイペースで便を排出し続け、気付けば6杯目を目前に、目的の “ほぼ透明で固形物がほとんど浮かんでいない状態” まで来ていた。トイレに行く合間を縫って、慌てて看護師さんへ電話すると、「頑張ってもうちょっとだけ飲んで、でも本当に無理になったらまた電話してください」と言われた。

 

それから30分間粘り、涙目になりながらもムーベンを飲み続ける。途中から気付いたが、飲んだ後に口に残る後味がなんとも言えず美味しくないので、緩和するために一回毎に口をゆすぐのが効果的だった。鼻をつまみながら極力舌で味を感じないようにするという古典的方法ももちろん試した。そして、もう喉がムーベンを受け付けなくなった頃にもう一度電話して、看護師さんからようやくムーベンSTOPの許可が下りた。そこからは脱水症状にならないようにこまめに水分を取りつつ検査時間を待つ。

 

 

いよいよ検査

ここまで来てやっと本題である。結論から言えば検査はあまりにもすんなり終了した。点滴を打ちながら、氷の苦い粒を舐め、言われるがままに横になってマウスピースをはめていたら、いつの間にか気を失っていて夢を見ていた。高校時代の親しい友人と会う夢だった。看護師さん二人に抱えられてベッドまで辿り着き、しばらく横になっていたら目が覚めた。

 

良性の大腸ポリープを一つ切除したらしい。多少お腹に痛みを感じるのかと思っていたら、全くそんなこともなかった。胃・大腸ともに写真を見せてもらったが、素人目ながらにもツルッツルで健康的そのものだった。結果、わたしの胃腸はただ敏感というだけだった。前回から処方してもらっていた漢方を出してもらって病院を後にする。検査自体は10行にも満たない内容ですんなり終わってしまったことに拍子抜けした。

 

 

内視鏡検査、クライマックスへ

しかし、これで終わりではない。しばらく横になったあと、看護師さんから「大腸ポリープ切除後の食事について」の用紙を受け取っていた。3日は消化に良い食事をとってくださいとのことだった。悲しくて思わず、看護師さんに「ラーメンはダメですか?」「じゃあお寿司はダメですか?」と聞いたけれど、答えはいずれもNOだった。用紙に書かれていた食事内容は “熱を出した時に食べられるもの” そのものだった。実のない茶碗蒸しってなんだ。野菜スープの上澄みってなんだ。

 

 

色々言いたいことはあるが、餃子と卵をグツグツしたものをおじやのようにして食べたり、テンションは上がらないけれど消化は抜群にいい食べ物を食べ続けた。根は真面目なのだ。矛盾しているようだけれど、マックやラーメン、お寿司やピザなどのジャンキーな食べ物を食べるために健康を維持しているような気がしてきた。食べ過ぎでは完全に食べられなくなってしまうので、程よいペースを保ち、野菜などの栄養を取りつつも隙を見つけてはジャンクフードを食べる。この時期はとにかくマックのグレープソーダフロートがマジで最高。

 

 

そして検査から3日目の夕方、ようやく念願の “ちゃんとしたご飯” を食べに行く。

みんな大好きサイゼリヤ。これでやっと長かった一連の内視鏡検査が終わる。

 

店員さんが注文を取りに来てくれて、夫と顔を見合わせた。とてつもない臭いが辺りに立ち込めている。店員さんが強烈なワ⚪︎ガだったのだ。体質的な問題はなかなか解決するのは難しいし、その中にもほんのり甘い香りも漂っていたので何かしらの対策をしているのかもしれない。ただ、今日だけはどうかやめて欲しかった。その人がすごくイヤな人間だったら良いのになと思った。良い人そうだったのが余計に何だか辛い。

 

 

しまいきれない悲しい気持ちを胸に抱えながら、アーリオオーリオに青豆のサラダを混ぜたパスタを食べた。美味しかった。ニンニクの香りがいつもよりも余計に良い香りに感じた。

 

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気分転換のために間違い探しをしたけれど、最後まで残りのひとつだけが見つけられなかった。わたしの初めての内視鏡検査は、いろんな意味でほろ苦い思い出となった。


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写真:著者撮影(iPhone6を使用)